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南部アフリカ

南アフリカの歴史②(ムフェカーネ・グレートレック・連邦の成立)

I.  ズール王国、ムフェカーネの時代                   

オランダが没落しイギリスにケープの支配権が移っていっていた18世紀末頃、まだヨーロッパ人の支配の及んでいなかった南アフリカ北東部ではバンツー人の政治集団同士が戦争等を通じて統合され中央集権的な国家が生まれつつあった。19世紀初めにはデラゴア湾やナタールの内陸地で多数の王国が合従連衡しながら興亡したが、有力国家の属国の一つであったズールー国王でその属する国家の軍人であったシャカが力を付けはじめ、ついには地域の覇権を握った。シャカは才能ある指導者であったが、同時に残酷なまでに冷酷だった。シャカはングニ社会(ズールー人の属する文化圏)の伝統的年功序列制度を基礎として強力な軍隊を作り上げ周辺の民族へ進攻。既存の民族の長の地位を認める代わりに王国への服従と家畜等の貢納を要求した。ズール人としての統一した国民意識も各人の出自に関わらず求められた。しかし、シャカの残忍さと度重なる戦争は王国内を不安定な状態に陥れ1828年にはシャカが暗殺され死亡した。シャカによる支配からズールー王国の崩壊までの混乱の時代、多くの民族がシャカの支配から逃れようと地域から離散していき新天地を求める過程で衝突を繰り返しながら離合集散していった。この時代を南アフリカ史ではムフェカーネ(衝突)と呼んでいる。ズールー王国崩壊後は代わってンデベレ、スワジ、ソト、ガザなどの国が台頭したが、シャカが残した惨禍と混乱は長く尾を引き、生活に困窮した人々は仕事を求めてケープに流れ込んだ。


II. イギリスの植民地政策、ボーア人のグレートトレック       


1795年、イギリスは当時フランスの強い影響下にあったオランダ(バタビア共和国)から、アジア航路の重要な中継地であるケープがフランスの手に落ちてしまうことを恐れこれを占領する。1802年には英仏の間で和睦が成立しケープはオランダ返されたが、3年後にはフランスのナポレオンとの間で対立が激化し再びイギリスが占領。1814年には正式にイギリス領ケープ植民地として宣言され、1820年には英本国の失業率の悪化に伴い低中流階級の職人らを中心とした男女、子供合わせて5000名(8万名がこの入植に応募した)が入植し、コーサ人から奪ったケープ東部の土地を開拓するよう命じられた。このときから続くイギリス人入植者らが長いオランダ支配によって広まっていたオランダ的社会文化に同化することを拒否し、自分の言語、宗教などを維持したことで既に複雑な様相を呈していた南アフリカ社会はさらに混沌とした。

ケープの獲得と並行してイギリスは1807年に奴隷貿易を禁止、1828年にはコイ人など先住民に労働場所選択の自由を与え1834年にはすべての英国植民地で奴隷制を禁止。加えてイギリスのケープ獲得後イギリス人がボーア人(オランダ系入植者)の代わりに役所、学校や裁判所の地位に就くようになったためボーア人はイギリスに強く反発。1835年にはイギリスの支配を逃れて約6000名ものボーア人がケープから北へ新天地を求めて移動を開始した。この大規模な移動はグレートトレックと呼ばれ、アフリカーナー(オランダ系入植者の子孫の現在の呼称)の歴史の中で最も重要な出来事の一つである。東部沿岸のナタールを目指した者の第一陣はズールー人に敗れたが、続いた第二陣はいわゆる「血の川の戦い」に勝利。1837年にナタール共和国が建設されたがこの動きを警戒したイギリスにより1842年には滅ぼされる。その後ナタールから逃げ延びたボーア人は内陸で他のグレートトレックと合流し1852年にトランスバール共和国を北部のリンポポ川流域地域に、1853年にオレンジ自由国をバール川・オレンジ川流域地域に建設した。この間イギリスは1843年にナタールを新たに植民地として加え、1860~70年代にかけてケープ・ナタール、トランスバール共和国、オレンジ自由国を統一した植民地にしようと試みたが失敗に終わった。


III. ダイヤモンド鉱脈・金鉱脈の発見、南アフリカ連邦の成立          

1867年のオレンジ自由国グリカランド・ウエスト、キンバレーでダイヤモンド鉱脈が発見されたことをきっかけに南アフリカの情勢は激変する。ボーア人国家の拡大を恐れたイギリスは1871年にグリカランド・ウエスト、1867年にトランスバール共和国を併合するも、2年後にはイサンドルワナの戦いでズールー人に、マジュバヒルの戦いでボーア人に敗退し1881年のプレトリア協定でトランスバール共和国の自治を認めることになる。しかし、1886年にトランスバール共和国のウィットウォータースラントで金鉱脈が発見されると、ケープと南ローデシア(現ジンバブエ)の南北から包囲作戦を実行したり、トランスバール政府転覆計画を実行したりし、最終的には1899年~1902年の第二次ボーア戦争においてボーア人国家に勝利。1910年には現在の南アフリカにあたる地域でケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由の四州でが南アフリカ連邦を構成することになった。


<参考>
Afọlayan, Funso S. 2004. Culture and Customs of South Africa. Culture and Customs of Africa. Westport, Conn: Greenwood Press.

宮本正興・松田基二(1997)『新書アフリカ史』講談社現代新書(p.364-373)

南アフリカの歴史①(コイサン人・バンツー人・オランダ支配)

I.  人類の発祥、サン族とコイ族の定着        
考古学研究によれば、南アフリカは人類発祥の最前線の地であり、300万年前のアウストラトピテクスの化石がトランスバール州や北ケープ州で見つかっており、東ケープ州からは5万年前のホモサピエンスの化石が見つかっている。
最初に現在の南アフリカに定着したのはサン人であると考えられているが、紀元前2~300年前にはコイ人が流入。サン人もコイ人も狩猟採集で生計を立てていたが、コイ人は牧畜も営んだため相対的に豊かになった。そのため、サン社会では起こらなかった富の集積がコイ社会でのみ進み次第にコイ人が支配的な民族となっていった。しかし、サン人とコイ人はもともと共通点も多く、概して友好的な関係を維持し通婚もよく行われていたから現在では両民族を合わせコイサン人と呼ぶことも多い。


II. バンツー人・鉄器と農耕の流入           

紀元4世紀ごろにはバンツー人が南アフリカの地域に流入したと考えられている。。彼らの最大の特徴は狩猟採集や牧畜に加えて穀物栽培をおおない、鉄器を作成し操ることであった。彼らは現在のニジェールとカメルーンの国境付近からアフリカ各地に拡散したニジェール・コンゴ語族の一派であり大陸西部の熱帯雨林を迂回し東部の大湖群周辺のサバンナ地帯を経由し北東部より南アフリカの地域に流入したとされる。南アフリカに到達後は狩猟採集・牧畜・農耕などの混合農業を行い一定の地域に定住。コイサン人とバンツー人は概して友好的で互恵関係にあったようで、コイサン人はバンツーの農耕技術を歓迎し地域の環境や薬草学を教え、狩りで得た獲物や豆を穀物と交換したりし、牛飼いとして働いたりもした。さらにはバンツー人に女性を贈り農耕社会の労働力再生産を助けた。しかしながら、鉄器社会の圧倒的優位は徐々に両民族間の力関係を変えていき、コイサン人はゆっくりとバンツー人と同化するか、辺境へ追いやられていった。

バンツー人が南アフリカ地域で成長していく中、バンツー農民の中でも成功したものは家畜や交易の管理を通じて富を築くものがあらわれ、小規模な政治集団が現れ始める。これらの政治集団は性別分業と家父長制を特徴としており、18世紀までには2つの有力な語系集団が認められる。ひとつは、ソト・ツワナ語族であり内陸の高原で現在の北東州・北州・ムプムランガ州・自由州のあたりに分布した。もう一方はングニ語族でコーサ人とズールー人が含まれ、ドラケンスバーグ山脈とインド洋の間、現在のクワズールナタール州・東ケープ州のあたりに分布した。しかし、これらの2つの集団やコイサン人は互いに頻繁に接触があったにも関わらず中央集権的な大国家が生まれることはなく分散的な政治秩序を維持し続けた。


III. ヨーロッパとの接触、オランダ東インド会社による支配          
1497年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰に到達して以来、喜望峰はヨーロッパの交易船にとって重要な補給地点となっており、それからコイ人は牛や羊を銅、鉄やたばことヨーロッパ人と交換していた。しかしほどなくしてヨーロッパ人の家畜に対する需要が急増したにもかかわらず、コイ人は牛を社会的地位を保証するステータスとして扱っており牛の売却を容易には増やそうとしなかった。これにより、牛の価格は上昇しヨーロッパ人の船員はときに牛を盗んだり強奪したので、コイ人による次に来る船団に対する復讐攻撃が頻発。喜望峰は供給地として不安定な状況に陥り、ついに当時の覇権国であったオランダが現地人との関係構築に乗り出した。

1652年にはオランダ東インド会社から派遣されたヤン・ファン・リーベックが補給基地の建設に着手。社宅、水路、農園を建設し城砦を築いた。当時ケープへ寄港する船舶は少なく採算を取れず、会社としても入植を推進して産業を興そうなどとは考えていなかったが、リーベックは会社を説得し補給地の食糧確保のため9名の社員を解雇し自由市民として農業のための土地を与え、現地人との取引の許可や免税特権を与えた。さらに、1657年にはポルトガル領アンゴラから170名の奴隷が輸入され奴隷制社会を導入。その後1807年のイギリスの奴隷禁止まで6万名の奴隷がこの地に運ばれたとされる。また、1688年にはプロテスタントを弾圧していたフランスからオランダ本国へ流れ込んだプロテスタントの一派ユグノー約200名がケープへ入植者として送還されるなど、白人の入植が進行。18世紀初めには約700の会社従業員ほか約1600の入植民、約1100の奴隷と地元の牧畜民が居住していたという。町はオランダ風の白い石造りの家並みや教会の塔に彩られ18世紀末には自由市民は約1万4000、奴隷は1万5000まで増加。商工業・農業・牧畜業などの分業体制も確立され経済的に発展した。
この間、コイ人によるオランダに対する蜂起は断続的に続けられたが、強力な軍事力を持つオランダはこれを退け続け、コイ人を殺傷し子供や土地・家畜を奪ったためコイ人は衰退し白人農場に雇われるか、カラハリ砂漠などの痩せた土地への移動を余儀なくされた。
白人農場は拡大するにつれてバンツー系民族最南端の民族で南アフリカ東岸部に住んでいたコーサ人と接触し、戦争を開始するがコーサ人はこれに良く持ちこたえる。しかし、19世紀半ばに呪術師の言葉に従い全ての牛を殺しと穀物を焼くという事件が起きたことをきっかけにほぼ一世紀にわたる戦争に敗北した。


IV. オランダの衰退とイギリスの進出          
リーベックがケープに入植した1652年にオランダはイギリスによる航海法の布告をきっかけに、北海での貿易や漁業、植民地などをめぐり第一次英蘭戦争に突入。1954年には若干オランダ劣勢で引き分ける形で終了したが1965年には第二次英蘭戦争に突入しテムズ川河口に迫る成果を挙げ巻き返し航海法をオランダに有利なものに変更した。さらに1672年には同年に起こる蘭仏戦争をにらみイギリスが第三次英蘭戦争を仕掛け、英仏連合艦隊でオランダ本土上陸をねらったがオランダはこれを退けた。しかし戦後オランダの国力は急速に衰退しイギリスが代わって海上の権力を掌握。オランダ東インド会社も1794年に破産を宣言し、翌年にはイギリスがケープを占領した。1802年にはフランスとの和睦のため一旦撤退するがその四年後には英仏戦争が再開したため再び占領。1814年には正式にイギリス領ケープ植民地が宣言された。


<参考>
Afọlayan, Funso S. 2004. Culture and Customs of South Africa. Culture and Customs of Africa. Westport, Conn: Greenwood Press.

宮本正興・松田基二(1997)『新書アフリカ史』講談社現代新書(p.354-363)

コイサン語系諸族(サン人・コイ人)

【コイサン語系諸族(コイサン)】
南アフリカやナミビアに分布するサン人(サン族)とコイ人(コイ族)の総称。
両民族は異なる出自を持つと考えられているが、ともにクリックと呼ばれる吸着音を特徴とする言語を使用することや、白人入植以前の長い年月の中で通婚などを通した交流が進み文化的にかなり共通点が多いことからこのように総称される。

【サン人】
かつてアフリカ大陸中央から南東部にかけて分布していたと考えれる狩猟採集民族。
はじめて白人入植者が接触した時には、ブッシュマン(蔑称)と呼んだが、「安定かつ強靭、きれい好きで繊細。若く無垢、謙虚だが遠慮がない」(Afolayan, 2004, p.25) と評したという。一般的に背は低く、肌は明るい茶色をしている。
20から80の核家族からなるバンド(狩猟採集民族の社会集団)を社会集団として生活し、洞窟等での野営と移動を繰り返し水源や狩場をめぐっていた。富・資本の集積はサン社会では進まなかったため社会構造はかなり平等で階級は存在しなかったが、男女間での役割分担は存在し、男は狩りを担当し女は子供の世話や食用植物の採集を担った。また、木や石を使って生活用品を作り、矢じりの先に毒を塗るなどしていた。
現在ではバンツー系民族に追いやられる形でナミビア周辺の半砂漠地帯にのみ住んでいるが、多くは白人農場で雇われており明確な文化単位としては認識されていないが、一部ではいくつかのバンドが自律的に存続している。宗教的には天上神と悪霊を崇拝する体系を持ち祖先儀礼は行わない。

【コイ人】
ボツワナのカラハリ砂漠北部から広まり南西アフリカに広く分布していたと考えられる狩猟採集・遊牧民族。
白人入植者にはホッテントット(蔑称)と呼ばれ、彼ら自身は他民族と区別するためコイコイ(男の中の男)と自称した。外見や言語はサン人に似ているが、サン族とは違い遊牧を行ったため相対的に豊かで富の集積が進み南アフリカ西部やナミビアの一部で支配的な勢力に成長した。
現在では白人入植者との混血が進み、一部を除き賃労働に従事している。宗教的には伝統的呪術信仰よりもキリスト教の影響が強い。

<参考>
ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版「コイサン語系諸族」「サン族」「コイ族」

【国別情報】南アフリカ共和国

I. 基本情報                    sf-map  sf-lgflag
人口:5300万人
面積:約120万㎢(日本の約3倍)
首都:プレトリア(行政都で首都)、ケープタウン(立法都)、ブルームフォンテーン(司法都)
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GDP:3兆6600億ドル
一人あたりGNI:7410ドル(日本の約6分の1)

*世界銀行の2013年データより


II. 人口構成                      
i) 民族(2014調査)
黒人(80.2%)、白人(8.4%)、混血〔カラード〕(8.8%)、インド・アジア人(2.5%)

ii) 言語
(2011調査)
公式言語:ズール語(22.7%)、コーサ語(16%)、アフリカーンス語(13.5%)、英語(9.6%)、ペディ語(9.1%)、ツワナ語(8%)、ソト語(7.6%)、トンガ語(4.5%)、スワジ語(2.5%)、ベンダ語(2.4%)、ンデベレ語(2.1%)
その他公式でない言語(2.1%)

iii) 宗教
(2001調査)
プロテスタント(36.6%)、カトリック(7.1%)、その他のキリスト教宗派(36%)、ムスリム(1.5%)、その他(2.3%)、不明(1.4%)、特定の宗教に属さない(15.1%)

*CIA World Factbook より

III. 歴史                        

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南アフリカの真実和解委員会(TRC)

010<目的>                                 
南アフリカのアパルトヘイト体制における暴力の加害者の処遇の決定。





<特徴>                                    
加害者の法的責任を追及せず、真実を告白することによって罪を免除し「和解」するという手法を取った。TRCは(1)事実を調査し、(2)加害者によるすべての真実の告白をもって罪を免除し、(3)被害者への補償を提案することが主な任務であった。また、国家側による罪だけでなく、ANC等の解放勢力側の罪も扱った。ただし、解放勢力側の暴力は適切であると認められる範囲である程度許容され、解放活動の範囲を超えた暴力について扱われた。

<経緯>                                    
公聴会が開かれすべてインターネット上で公開された。被害を訴えた人々の9割はアフリカ人で、その半分以上は夫や息子を失った女性であった。公聴会は農村まで出張し、証言する被害者への精神的サポートも行われた。また、殺人等の個別事件だけでなく体制としてのアパルトヘイトを明らかにするため企業・メディア等各種社会組織に特別の調査が行われた。

<結果>                                    
7000人の免罪申請を審査し、4500人の免罪を否認、125人の免罪を認定(1998年時点)。実際に殺人・誘拐等に手を下した人間ではない大統領等の体制の責任者への追及が十分に及ばず、今後の通常の司法による訴追に委ねられた。

<評価>                                    
国際社会:おおむね好評価
遺族:「和解」という手法は白人の政治力・経済力に対する妥協に過ぎない。
旧政府・ANC:個別事件についてではなく、当時一定以上の地位にいた者をまとめて免罪するべき。


<参考>
永原陽子(1999)「南アフリカの真実和解委員会」『アフリカ・レポート』No.28 URL:http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAF/ZAF199903_012.pdf
BBC. (1998). TRC: The facts. URL: http://news.bbc.co.uk/1/hi/special_report/1998/10/98/truth_and_reconciliation/142369.stm

モザンビークの歴史

主にNdege (2007)
I.  バンツー人の移住とインド洋交易の発展                     
バ ンツー語系の民族グループが現在のモザンビークを含む南アフリカ地域一帯に移住したのは1世紀の終わりごろのことであった。バンツー人は農耕民族であった ためこの地域に集住し、アフリカ大陸東岸に都市を形成。インドやアラビアの文明と交易を行った。スワヒリ語が広く沿岸で話され、東アフリカとアラビアの交 易にも使用された。また、イスラム教も広く信者を集めた。この地のアフリカ商人は内陸アフリカとアラブ商人との間の仲介人としての役割を果たし、経済的・政治的繁栄を実現、その影響力は現在の中央アフリカまで及んだ。

II.  沿岸都市国家とモノマトパ王国の繁栄                      

a1180_0015919世紀以来 シャイフ(イスラム教系国の指導的立場を表す)を指導者とする都市国家のソファラが繁栄していた。シャイフは常にアラブ人で、他の沿岸都市国家の支配者層 との血縁を主張した。ソファラは目立って産物があるわけではなかったが、重要な港として機能し象牙・金など内陸から自国を経由する輸出や輸入に課税し繁栄 した。
また、少し内陸のモザンビーク高原も11世紀から17世紀にかけて多くの王国を育んだ土地であり、11世紀にはショナ人による王国が誕生。 王国は現在のジンバブエあたりの広い地域を支配し北方の金鉱脈地帯から東岸のソファラや西方地域への貿易を管理することで富を築いた。支配者はその支持者に象牙・ 金・食物などの貢物の一部を分け与え支配を強化し、これに魅かれた金や銅の細工師が集まった。しかし、15世紀前半には北東のモノマタパ王国の興隆や人民 の流出等に影響され衰退していった。
1480年代までにはモノマタパ王国が強大な軍事力を背景に東進へ拡大し沿岸地域まで支配を広げた。王国は国 内のマゾエ地域から砂金を産出しそれから得られる利益を用いて宝石や装飾品をアラブ・スワヒリ商人から購入した。アラブ・スワヒリ商人とは良好な関係を維 持しており、このためポルトガルがこの地にやってきたときには内陸の軍事拠点を排する一方で王国の支配者層とは関係を密にしようとした。
19世紀 初めには南方からのンゴニ人の侵入によりモザンビーク地域は多大な影響を受けた。ンゴニ人はズールー王シャカによるムフェカネ騒乱の難民のうち北に逃れた もので、1820年代にソシャンガネに率いられ現在の南アフリカからモザンビーク南部に侵入、ガザ王国を建設した。ソシャンガネの率いる軍隊により、シャ カの軍隊のような中央集権的に組織された軍隊の概念がモザンビーク地域にももたらされた。ムフェカネ騒乱以来、19世紀前半はズールーからもたらされた年 齢を基準とした徴兵制が政治的な影響を持つようになった。

III.  ポルトガルによる植民地支配の展開                      
 i) 交易の掌握

上 述のような王国の興亡の中でポルトガルは徐々に影響力を増していく。大航海時代の始まりとともに、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年にモザンビーク沿岸に到 着したが、この時点ではモザンビークの重要性はインド航路の中継地点としてのものであった。しかし、主に2つの要因によってポルトガルはモザンビーク沿岸 を直接支配することに積極的になっていく。第一に、ポルトガルはこの地における象牙と金の貿易を管理したかったこと。第二に、そのためには既存のアラブ・ スワヒリ商人を従わせねばならなかったことがである。ポルトガルは内陸部のアフリカ人を支配下に置き仲介人としての地位を認める代わりにポルトガルのその 地域における支配的地位を認めるよう要求した。当然、アラブ・スワヒリ商人はこれに対して反抗し、16世紀中争いが続いたが、16世紀末にはポルトガルは 彼らに取って代わることに成功し、ザンベジ川岸の交易拠点を掌握したうえセナ、テテ、チコヴァなどに新たに拠点を設置した。
 ii) 奴隷貿易の拡大
18世紀にはモザンビークはフランスのモーリシャスやレユニオンにおけるプランテーション農業の労働力需要を背景として奴隷貿易拠点となった。はじめはフラン スはザンベジ川流域のケリマネ等のポルトガル商人やインド商人から奴隷を購入していたが、農場の拡大に伴う過労働・過酷な労働環境により多数の奴隷は死亡 し、さらなる奴隷が必要となった。そのためフランスは東アフリカのキルワやザンジバルの奴隷市場のアラブ・スワヒリ商人からも奴隷を買い求めるようになり 内陸部への遠征にも支援をするようになる。ヤオを筆頭としてアフリカ人商人も奴隷を販売した。
1842年にポルトガルはモザンビークからの奴隷貿 易を禁止したこともあり19世紀には奴隷貿易は先細ってきており、供給は減り、奴隷の価格が上昇した。しかしポルトガルとブラジルの奴隷商人の間の結びつ きは強く、価格上昇による収益性増大に伴いブラジル奴隷商人はインド洋沿岸にまで奴隷獲得に遠征しモザンビークやザンベジ川流域から違法に奴隷を獲得し た。
 iii) 統治構造の変遷
ポルトガルによるモザンビーク支配は効率的であったとは言いがたい。彼らの支配は主に軍事 拠点と貿易拠点の内地のみに限定されていて、かつ安定的ではなかった。その理由として、第一にはポルトガルが現地に統治機構を設置せず、インドの植民地ゴ アの総督が兼轄したため政府とモザンビークの距離が遠かったことがあげられる。また、第二にポルトガルは住民に対してプラゾスと呼ばれる土地使用権を与え ており使用権を与えられた者は所有地に関し自己の裁量による管理を認められていたことである。使用権保有者はポルトガルの支配確立から数世紀をまたぐ間に 徐々に力を蓄え、ポルトガル当局に対し影響力を持ち得るほどに成長し、自治的になっていき19世紀後半のアフリカ分割の流れの中で直接支配を強めようとす るポルトガルに対し抵抗した。1891年にはポルトガルとイギリスの間でモザンビークの南部と西部の国境が画定され、ポルトガルは直接支配の確立を進め 1902年にロレンソマルケス(現在のマプト)を植民地首都とした。他のヨーロッパ列強と同様、ポルトガルも20世紀初めの20年間は鎮圧戦争を行い、 1917年に呪術師により率いられたバルエの乱を鎮圧。1932年には土地使用権制度は正式に廃止され直接支配が確立された。
 iv) 植民地期のモザンビーク経済
モザンビークの植民地経済は隣接する植民地経済に強く依存していた。鉄道は建設されたが、その目的はモザンビーク内との接続というよりは近隣のイギリス植 民地の生産物を目的としたものであったし、過酷な労働環境・低賃金での強制労働を嫌い多くの人々がましな生活を求めて近隣植民地へと離散していった。南ア フリカをはじめ近隣植民地では多くの白人入植者によって大規模農業や鉱山採掘事業が行われており、南部の人々は南アフリカへ、北部・西部の人々はジンバブ エ・マラウィ・ザンビアへ流れた。このような労働力の流出がモザンビーク植民地経済の弱さであった。

IV.  独立戦争の展開                                
  i) 独立運動の盛り上がり

第 二次世界大戦中、ポルトガルは植民地支配強化へ乗り出し、入植者数は戦前の90,000人から1960年代には200,000人に倍増した。土地は入植者 へ振り分けられ、アフリカ人はプランテーションでの労働に従事させられた。1950年代から60年代にかけて地方での反抗運動が盛り上がりを見せ、ポルト ガルはアフリカ人エリート層に対しても平等な雇用機会を与えず地位を貶め続けたため、大衆だけでなくエリート層にまで反抗運動は広がり、民族・政治・経済 的地位の違いを超えて国家独立のための機運が高まった。
独立獲得のため、1962年にはモザンビーク解放戦線(Frelimo)がエデュアルド・ モンドラーネを議長として設立される。Frelimoは武力を背景とした交渉によってのみ独立を勝ち取れるという信念に基づき、独立戦争の準備としすでに 独立していたアルジェリアに250名の兵士を送り込み訓練を受けさせるなどし、1964年にはモザンビーク独立戦争の戦端が開かれた。
  ii) 戦争の長期化
Frelimo は十分に武器もなく、指揮系統も弱く、ときに内部で論争があることもあったが、ポルトガルの支配を打倒するという点に関し強い意志を持っていた。ポルトガ ルのゲリラ対策があまりに残虐であったため同情を集めさらに多くの人々が解放運動に参加し、ザンビアやタンザニアなど近隣諸国も活動のための拠点を供与した。対ゲリ ラ作戦の目的はゲリラ兵の完全な排除であり、戦いが激しくなるにつれ地雷の設置・村落の破壊・暗殺・数千人の逮捕などが行われ解放運動への同情はさらに広がって いった。そんな中Frelimoの指導者モンドラーネが暗殺され、側近のサモラ・マチェルが引き継いだが、このマチェルがその後傑出した戦術家・指揮官と して活躍するようになる。
モンドラーネ暗殺後も衰えず数を増し一層強い意志を見せる解放運動に対し、ポルトガルは数千の軍勢をモザンビークに維持 することが難しくなってきた。折しもアンゴラやギニアビサウといった他のポルトガル植民地でも解放戦争と向き合っており、戦費がかさみ続けるとともに死傷 者も増え続け、ポルトガル国内政治にも独立戦争の行く末が影響を持ち始めた。
  iii)  リスボンクーデター、そして講和
1974 年、首都リスボンでクーデターが起き、アントニオ・ド・スピノラ率いる国家救済暫定政権が政権についた。暫定政権はすぐに植民地の自治を認めることで膠着 状態を終わらせることを宣言。Frelimoとはザンビアのルサカで講和に署名し移行政府を設置しモザンビークの独立を進めることに合意した。独立戦争は アフリカ解放闘争の中でも最も長く血にまみれたものの一つとなり、両陣営で数千人が戦死し、数百万人が国を追われ、経済は崩壊してしまったが、1975年 にマチェル・サモアのもとモザンビークは独立を果たした。独立後、Frelimoはポルトガル人入植者に復興・国家建設への支援を求めたが彼らは拒否しほ とんどが帰国していった。

V.  内戦の展開                                
  i)  南アフリカの介入
独立を勝ち取ったものの、そ の後の20年間はFrelimoとRenamoの間での内戦が続いた。Renamoとは1976年に出来た反Frelimo組織で、少数の白人による支配 がまだ続いていた南アフリカや南ローデシアがアフリカ人国民主義の高まりを恐れ支援していた。さらに、Frelimo政権はマルクスレーニン主義に基づく 社会主義国家の建設を目指し、アパルトヘイト施策や白人入植者による支配に反対を表明した。そのため、南アフリカは対Frelimoゲリラ闘争を一層積極 的に支援し始め、彼らの作戦に資金を提供し、モザンビーク国内のインフラを破壊し開発プロジェクトを妨害した。地方では多くの地雷が埋められ数千人が爆死 し、さらに多くが足を失った。一方でザンビア・タンザニア・独立後のジンバブエといった近隣国はFerlimo政府側に軍事的支援を行った。内戦が続くに つれ国内では生命も危うくなり経済生活は崩壊し、100万人近くの人々が住み慣れた土地を離れ離散し、国外避難民の数は独立戦争中1974年の25万人から 1993年の内戦終結までに170万人まで膨れ上がり、国内での避難については400万人にも上った。
  ii)  ンコマティ協定
1980 年代初めにはモザンビークの経済はどん底に陥り、石油や砂糖を手に入れることも難しくなった。Renamoと白人南アフリカはモザンビーク政府・経済の両 方を弱体化することに成功していた。マチェルは国を立て直すため、西欧諸国との関係修復に取り掛かり、同時にアパルトヘイト体制の南アフリカとの交渉も始 めた。最終的に1984年にンコマティ協定を南アフリカと結ぶことに成功し、モザンビークは南アフリカのアフリカ国民会議(ANC)をはじめとするアフリ カ人国民運動を保護しない代わりに南アフリカもRenamoに軍事的支援をしないことで合意した。しかし、協定締結後も8年間内戦は続き、途中1986年 10月19日にはマチェルが飛行機事故で死亡、シサノ・ジョアチムが後を引き継いだ。
  iii)  冷戦の終結、終結へ
内戦、絶望的な経済、南アフリカとの敵対といった状況の中シサノは大統領に就任した。彼は暴虐なふるまいを続けるRenamoに対しては強い姿勢を維持し、前 任者と同様西欧諸国との関係を改善しようとした。さらに1980年代後半には冷戦の終わりやフレデリック・ウィリアム・デ・クラークの南アフリカ大統領就 任により状況が一変する。共産主義イデオロギーは否定され、1989年にモザンビーク政府は社会主義経済政策を廃止し経済改革に取り組み始めた。デ・ク ラークの南アフリカは改革を行いANCの活動を解禁。Renamoに対する援助も尻すぼみになっていった。このような国際・地域・国内の情勢の変化に伴い Frelimoは自由主義経済・新憲法制定・西欧との関係改善・Renamoとの和平といった改革に舵を切っていった。新憲法は1990年に発布され、 1977年以来続いた法定の一党制を排し複数政党選挙を認めた。また、国際的な仲介によりFrelimoとRenamoの間で1992年10月15日に停 戦協定が結ばれ正式に内戦は終結した。

VI. 現在                                  
内戦終結後、1994年・1999年の選挙ではシサノ大統領率いる Frelimoが圧倒的に勝利し、2004年にシサノ大統領が任期を終えた後の2004年の選挙でもFrelimoが勝利しゲブーサが大統領に就任した。 しかしRenamoも一定数の議席を確保し、無視できない存在となった。
1995年には周辺国に合わせて英連邦に加盟、また貧困削減戦略を策定、 翌1996年には経済多角化のためポルトガル語諸国共同体にも加盟した。1999年にはIDA・IMFによる債務救済と経済成長政策が実行された。国際金 融機関・援助機関の援助とともに、海外直接投資を積極的に呼び込み、急速に経済成長を続けている。


<参考>
平野克己監修(2011) 『日本人が知っておきたいアフリカ53か国のすべて』 レッカ社
JETRO(2014) 『モザンビーク概況』 URL:http://www.jetro.go.jp/world/africa/
Ndege, George O. (2007). Culture and Customs of Mozambique. Westport: Green wood Press

*画像はCIAより

ザンビアの歴史

*主にScott (2006)より
I.  民族の入れ替わりと王国の形成                          
紀元前5世紀~紀元10世紀:バンツー語族が西アフリカより移動し、原住民だったコイサン語族を追放、あるいは通婚などを通し同化する。
トンガ人は1200年頃には東方から現在のザンビア南部に移住。ベンバ人・ロジ人等そのほかの民族はルアラバ川周辺の人口圧力に押される形で、現在のコンゴに位置したルンダ・ルバ王国から1600~1750年頃に南下してきたと言われている。
最 初の近代西欧との接触は1500年頃東アフリカ交易路を開拓しだしたポルトガル人との出会いであり、奴隷貿易商は主に西から、商人はインド洋から渡ってき た。また、海外との交流については、遅くとも1世紀には南・東アフリカ地域社会は中国・ローマ・アラブなどの古代文明との交流があったことも忘れてはなら ない。
ザンビア内に定住した民俗間では民族の移動の際に頻繁に争いがあり、バンツー語族・コイサン語族、ベンバ人・マンブエ人、ベンバ人・ビサ 人、ベンバ人・ンゴニ人などの間で争いがあった。1700年頃ザンビア西方ザンベジ川氾濫原に居住したロジ人は西欧の束縛を受けず、他の民族を傘下にいれ 組織化された王国を持っていた。

II.  南アフリカ会社による支配から直轄植民地へ                   

1850年代までは西欧はザンビア地域にあまり興味を示してこなかったが、1851年にスコットランド人宣教師や探検家のリビングストンが訪れ詳細に報告したことをきっかけに、ベルリン会議の 5年後1890年には大量の白人(キリスト教宣教師・探検家)が流れ込み、さらに1890年から91年にかけてイギリス南アフリカ会社が現在のザンビアと なる領域を管理下に置きザンビアの植民地支配が始まる。イギリス南アフリカ会社は彼らの言う「保護」を与える代わりに独占的な鉱山採掘権を得るという取引 をロジ王レワニカと交わし、領域全体に支配を広げていった。同時に、南アフリカ会社は現在のザンベジ川流域で現在のジンバブエにあたる地域のンデベレ王ロ ベングラとも同様の取引を交わしており、のちの北ローデシアと南ローデシアとなった。
支配開始初期のうちは白人入植者は少数でほとんどは南アフリ カ会社鉱山開発担当者だったが、19世紀が終わるころには大規模農業を目的として多くの白人が移住した。1920年までに移住した5000人弱の白人のほ とんどは鉄道が整備された中央部に住み、それ以外の地域には開発の手は及ばなかった。そして1923年には会社による利益独占に白人入植者が反感を抱き国 民投票により南アフリカ会社による支配から英国植民省による直轄植民地へと移行。白人入植者らは立法委員会を構成し本国に高度な自治を要求するようにな る。

III.  中央アフリカ連邦の形成                            
南北ローデシアは別々の地域として高度な自治が行われていたが、もともとは同じ南ア フリカ会社に支配されていたことや、どちらも入植者が英語系であること、経済的結びつきが強いことから早くとも1930年代には何らかの形での統合あるい は連携へ向けての機運が生まれてきた。高度な自治が認められているとはいえ、地域の統合は国家の主権に関わることであり本国との交渉に時間がかかったが、 1953年には二アサランド(現在のマラウイ)を加えて中央アフリカ連邦が誕生し、連邦議会および首相がサリスブリー(現在のハラレ)に設置された。連邦 の権限は防衛・貿易・通信・産業・金融に限定され、その他教育・福祉・農業・土地政策は各州政府が管轄した。連邦が機能していた期間、イギリス本国からの 介入はほとんどなかったといってい良い。
当時北ローデシアと二アサランドとしては、インフラをはじめとする産業基盤が優れた南側と統合されること による経済的恩恵や、白人人口の多い南側との統合よる自治強化を期待していたようだが、実際には確かに自治は強化されたが経済的には北側の銅をはじめとす る自然資源・人的資本が南側のに流れ出しただけであった。このときの流れが現在のジンバブエの独立後初期の経済成長に著しく貢献したと考えられる。
その後黒人の貧困がより激しかった南側で、黒人の20万人に及んだ白人移住者への反感が高まり資源をめぐり争いが起こるようになり、さらに1960年代になって連邦の人種差別政策が国際的に受け入れられなくなってくると、1963年に連邦は解体された。

IV. 独立、カウンダ独裁政権                           za-lgflag
第 二次大戦後、インド独立(1947)の報などに刺激され始まったアフリカ諸国の独立運動に影響を受け、遅くとも1950年代後半にはザンビアでも独立運動 がはじまった。ザンビアの独立運動はハリー・ンクムブラとケネス・カウンダをリーダーとする北ローデシアアフリカ人国民会議(NRANC)(のちに単に ANCに改名)によって当初主導されたが、1958年にはイギリス政府との交渉の仕方に関し対立が生じカウンダが分離しより過激な組織としてザンビアアフ リカ人国民会議(ZANC)を設立。翌年には運動が禁止されカウンダ自身も投獄されるが、1960年には統一国民独立党(UNIP)を新たに設立した。北 ローデシアの人種差別政策は南側と比べれば比較的穏当なものだったため、独立運動の高まりを受けたイギリスの提案により独立交渉が速やかに行われ、暴力含 みとなったジンバブエの独立よりは平和的に独立プロセスが進行したといえる。手始めに1962年には立法委員会に黒人が選出され、最終的に1964年10 月24日に正式にザンビア共和国として独立した。独立に先立ち行われた議会選挙ではUNIPが圧倒的多数を獲得し、ケネス・カウンダが初代大統領に就任。 複数政党制を導入し、独立後の65の議席のうち55がUNIP、残りの10議席がANCであった。しかし、1966年に設立された統一党(UP)は設立2 年後に活動禁止、副大統領を務めたベンバ人政治家により1971年に設立された統一人民党(UPP)は設立6か月後には活動を禁止された。1972年2月 にはUPP活動禁止とほぼ同時に一党制への転換が宣言され同年12月には憲法が改正され正式に一党制に移行した。この背景として、UPPがUNIPの支持 基盤であった北部のベンバ人の支持を集めようとしたことをきっかけに政党間での民族差別的紛争が起こるようになったことがあると言われる。1973年には 改めて一党制に基づく新憲法を制定しカウンダがザンビア第二共和国大統領に就任。1991年まではUNIPの一党制・カウンダ独裁の体制が続いたが、経済 危機や国内外からの圧力により再び複数政党制に移行した。

V.  現在                                    

複数政党制のもとで行われた選挙では複数政党制民 主主義運動(MMD)がUNIPを下して第一党となりフレデリック・チルバが2代目大統領となり96年に再選。同年の憲法改正で大統領の三選が禁止された ため2002年には同党のレヴィー・ムワナワサが3代目大統領に就任。実務の登用や構造改革に取り組むが2008年8月に病死。後任に選ばれたルピア・バ ンダは前大統領の経済成長路線を継承し2030年までの長期国家戦略を策定し中進国入りを目指している。2011年9月の選挙では愛国戦線(PF)へ政権 交代し党首マイケル・サタが5代目大統領に就任した。


<参考>
平野克己監修(2011) 『日本人が知っておきたいアフリカ53か国のすべて』 レッカ社
JETRO(2014) 『ザンビア概況』 URL:http://www.jetro.go.jp/world/africa/outline/zambia_20140514.pdf
Taylor, Scott D. (2006). Cultures and Customs of Zambia. Westport: Green wood Press

※画像はCIAより

【国別情報】モザンビーク

I. 基本情報                      mz_large_locator
人口:約2600万人(2014)mz-lgflag
面積:約79万㎢(日本の約2倍)
首都:マプト

GDP:約156億ドル(2013)
一人当たりGNI:610ドル(2013)(日本の約1.3%)

*世界銀行データより

II. 人口構成                     
i) 民族
アフリカ人99.66%(マクワ人・トンガ人・ロmz-mapムエ人・セナ人・その他)、その他ヨーロッパ系・インド系
ii) 言語(1997年国勢調査)
公用語:ポルトガル語10.7%(英語も広く使用される)
エマクワ語25.3%、シチャンガナ語10.3%、シセナ語7.5%、エロムエ語7%、エチュワボ語5.1%、その他モザンビーク系語30.1%、その他4%
iii) 宗教(2007年調査)
・キリスト教カトリック28.4%、イスラム教17.9%、シオニズム系キリスト教15.5%、プロテスタント12.2%、その他6.7%、無宗教18.7%、不明0.7%
・キリスト教(カトリック28.4%・プロテスタント27.7%)、イスラム教17.9% ※JETRO

*CIA World Factbookより

III. 歴史                        
モザンビークの歴史へ



*画像はCIAより
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【国別情報】ザンビア

za-mapza-lgflagI. 基本情報                                                         
人口: 約1500万人
面積:約74万㎢(日本の約2倍)
首都:ルサカ
GDP: 260億ドル
一人当たりGDP: 1845ドル(日本の約20分の1)za_large_locator

*世界銀行2013年データより

II. 人口構成                                                         
i) 民族
ベンバ人21%、トンガ人13.6%、チェワ人7.4%、ロジ人5.7%、ンセンガ人5.3%、そのほか47%
ii) 言語
ベンバ語33.4%、ニャンジャ語14.7%、トンガ語11.4%、チェワ語4.5%、ロジ語5.5%、ンセンガ語2.9%、そのほか27.6%
iii) 宗教
・プロテスタント75.3%、カトリック20.2%、そのほか2.7%、無宗教1.8% 
・キリスト教50~75%、イスラム教・ヒンズー教24~49%、伝統宗教 ※左のみアジア経済研究所より

*CIA World Factbookより

III. 歴史                                                                 
「ザンビアの歴史」へ



※画像はCIAより

【熱気】NEC、ナイジェリアで生体認証事業を狙う

who what 5  NECのアフリカでの生体認証事業についてNHK記事とNECのサイトから紹介します。
 南アフリカでの事業についてはNECが成功事例として紹介しているものを参考にしていますのでかなり褒めちぎっておりますがあしからず。

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NECがナイジェリアで役所の住民システムへの生体認証システムの納入を目指している。
1億7000万人で世界7位の人口規模・豊富な原油資源を背景に年7%成長を続け、昨年には南アフリカを抜きGDP規模でアフリカ最大となったナイジェリアで貿易見本市が開かれ、日本企業30社を含む900社が出展した。
その中でNECは顔認証システムを実演し「空港のセキュリティに使える」などの好評を得た。

NECは既にナイジェリア首都ラゴスで指紋認証技術を使った住民登録システムの導入試験を行っている。
国民の多くが60%がいまだに1日1.25ドル以下で暮らしているナイジェリアにおいては効率的な行政システムを確立することも大きな課題の一つだ。このシステムによって個人の失業状況の追跡等が可能になるし、重複登録による年金不正受給などの不正も防ぐことができる。
NECはナイジェリアのすべての州でこのシステムを納入すると息巻く。

それ以外にもNECは世界の各地で生体認証ビジネスを展開しており、南アフリカ内務省では既に2001年から段階的に指紋認証による住民登録システムが導 入されており、それまで書類によって行われていた作業が省略し効率的な行政を実現している。このシステムによるIDが自動車の購入からレンタルビデオまで 南アフリカでは様々な場面で必要とされる。システムの維持管理のための地元の技術者や役人の教育を通して地元経済の潜在力強化にも貢献しているし、多様な人種が暮らし人種間の利害関係が複雑な南アフリカにおいて、このような一元的なシステムで国民を登録することは国民統合のための象徴的な意味を持っている。

参考

NHK World News (2014) "Eyeing the Opportunity in Nigeria" 2014/12/15.
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/news/worldupdate/20141215.html

NECウェブサイト 指認証システムの導入事例:南アフリカ内務省
http://www.nec.com/en/case/sa/