アフリカまとめ

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南アフリカ

南アフリカの歴史②(ムフェカーネ・グレートレック・連邦の成立)

I.  ズール王国、ムフェカーネの時代                   

オランダが没落しイギリスにケープの支配権が移っていっていた18世紀末頃、まだヨーロッパ人の支配の及んでいなかった南アフリカ北東部ではバンツー人の政治集団同士が戦争等を通じて統合され中央集権的な国家が生まれつつあった。19世紀初めにはデラゴア湾やナタールの内陸地で多数の王国が合従連衡しながら興亡したが、有力国家の属国の一つであったズールー国王でその属する国家の軍人であったシャカが力を付けはじめ、ついには地域の覇権を握った。シャカは才能ある指導者であったが、同時に残酷なまでに冷酷だった。シャカはングニ社会(ズールー人の属する文化圏)の伝統的年功序列制度を基礎として強力な軍隊を作り上げ周辺の民族へ進攻。既存の民族の長の地位を認める代わりに王国への服従と家畜等の貢納を要求した。ズール人としての統一した国民意識も各人の出自に関わらず求められた。しかし、シャカの残忍さと度重なる戦争は王国内を不安定な状態に陥れ1828年にはシャカが暗殺され死亡した。シャカによる支配からズールー王国の崩壊までの混乱の時代、多くの民族がシャカの支配から逃れようと地域から離散していき新天地を求める過程で衝突を繰り返しながら離合集散していった。この時代を南アフリカ史ではムフェカーネ(衝突)と呼んでいる。ズールー王国崩壊後は代わってンデベレ、スワジ、ソト、ガザなどの国が台頭したが、シャカが残した惨禍と混乱は長く尾を引き、生活に困窮した人々は仕事を求めてケープに流れ込んだ。


II. イギリスの植民地政策、ボーア人のグレートトレック       


1795年、イギリスは当時フランスの強い影響下にあったオランダ(バタビア共和国)から、アジア航路の重要な中継地であるケープがフランスの手に落ちてしまうことを恐れこれを占領する。1802年には英仏の間で和睦が成立しケープはオランダ返されたが、3年後にはフランスのナポレオンとの間で対立が激化し再びイギリスが占領。1814年には正式にイギリス領ケープ植民地として宣言され、1820年には英本国の失業率の悪化に伴い低中流階級の職人らを中心とした男女、子供合わせて5000名(8万名がこの入植に応募した)が入植し、コーサ人から奪ったケープ東部の土地を開拓するよう命じられた。このときから続くイギリス人入植者らが長いオランダ支配によって広まっていたオランダ的社会文化に同化することを拒否し、自分の言語、宗教などを維持したことで既に複雑な様相を呈していた南アフリカ社会はさらに混沌とした。

ケープの獲得と並行してイギリスは1807年に奴隷貿易を禁止、1828年にはコイ人など先住民に労働場所選択の自由を与え1834年にはすべての英国植民地で奴隷制を禁止。加えてイギリスのケープ獲得後イギリス人がボーア人(オランダ系入植者)の代わりに役所、学校や裁判所の地位に就くようになったためボーア人はイギリスに強く反発。1835年にはイギリスの支配を逃れて約6000名ものボーア人がケープから北へ新天地を求めて移動を開始した。この大規模な移動はグレートトレックと呼ばれ、アフリカーナー(オランダ系入植者の子孫の現在の呼称)の歴史の中で最も重要な出来事の一つである。東部沿岸のナタールを目指した者の第一陣はズールー人に敗れたが、続いた第二陣はいわゆる「血の川の戦い」に勝利。1837年にナタール共和国が建設されたがこの動きを警戒したイギリスにより1842年には滅ぼされる。その後ナタールから逃げ延びたボーア人は内陸で他のグレートトレックと合流し1852年にトランスバール共和国を北部のリンポポ川流域地域に、1853年にオレンジ自由国をバール川・オレンジ川流域地域に建設した。この間イギリスは1843年にナタールを新たに植民地として加え、1860~70年代にかけてケープ・ナタール、トランスバール共和国、オレンジ自由国を統一した植民地にしようと試みたが失敗に終わった。


III. ダイヤモンド鉱脈・金鉱脈の発見、南アフリカ連邦の成立          

1867年のオレンジ自由国グリカランド・ウエスト、キンバレーでダイヤモンド鉱脈が発見されたことをきっかけに南アフリカの情勢は激変する。ボーア人国家の拡大を恐れたイギリスは1871年にグリカランド・ウエスト、1867年にトランスバール共和国を併合するも、2年後にはイサンドルワナの戦いでズールー人に、マジュバヒルの戦いでボーア人に敗退し1881年のプレトリア協定でトランスバール共和国の自治を認めることになる。しかし、1886年にトランスバール共和国のウィットウォータースラントで金鉱脈が発見されると、ケープと南ローデシア(現ジンバブエ)の南北から包囲作戦を実行したり、トランスバール政府転覆計画を実行したりし、最終的には1899年~1902年の第二次ボーア戦争においてボーア人国家に勝利。1910年には現在の南アフリカにあたる地域でケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由の四州でが南アフリカ連邦を構成することになった。


<参考>
Afọlayan, Funso S. 2004. Culture and Customs of South Africa. Culture and Customs of Africa. Westport, Conn: Greenwood Press.

宮本正興・松田基二(1997)『新書アフリカ史』講談社現代新書(p.364-373)

南アフリカの歴史①(コイサン人・バンツー人・オランダ支配)

I.  人類の発祥、サン族とコイ族の定着        
考古学研究によれば、南アフリカは人類発祥の最前線の地であり、300万年前のアウストラトピテクスの化石がトランスバール州や北ケープ州で見つかっており、東ケープ州からは5万年前のホモサピエンスの化石が見つかっている。
最初に現在の南アフリカに定着したのはサン人であると考えられているが、紀元前2~300年前にはコイ人が流入。サン人もコイ人も狩猟採集で生計を立てていたが、コイ人は牧畜も営んだため相対的に豊かになった。そのため、サン社会では起こらなかった富の集積がコイ社会でのみ進み次第にコイ人が支配的な民族となっていった。しかし、サン人とコイ人はもともと共通点も多く、概して友好的な関係を維持し通婚もよく行われていたから現在では両民族を合わせコイサン人と呼ぶことも多い。


II. バンツー人・鉄器と農耕の流入           

紀元4世紀ごろにはバンツー人が南アフリカの地域に流入したと考えられている。。彼らの最大の特徴は狩猟採集や牧畜に加えて穀物栽培をおおない、鉄器を作成し操ることであった。彼らは現在のニジェールとカメルーンの国境付近からアフリカ各地に拡散したニジェール・コンゴ語族の一派であり大陸西部の熱帯雨林を迂回し東部の大湖群周辺のサバンナ地帯を経由し北東部より南アフリカの地域に流入したとされる。南アフリカに到達後は狩猟採集・牧畜・農耕などの混合農業を行い一定の地域に定住。コイサン人とバンツー人は概して友好的で互恵関係にあったようで、コイサン人はバンツーの農耕技術を歓迎し地域の環境や薬草学を教え、狩りで得た獲物や豆を穀物と交換したりし、牛飼いとして働いたりもした。さらにはバンツー人に女性を贈り農耕社会の労働力再生産を助けた。しかしながら、鉄器社会の圧倒的優位は徐々に両民族間の力関係を変えていき、コイサン人はゆっくりとバンツー人と同化するか、辺境へ追いやられていった。

バンツー人が南アフリカ地域で成長していく中、バンツー農民の中でも成功したものは家畜や交易の管理を通じて富を築くものがあらわれ、小規模な政治集団が現れ始める。これらの政治集団は性別分業と家父長制を特徴としており、18世紀までには2つの有力な語系集団が認められる。ひとつは、ソト・ツワナ語族であり内陸の高原で現在の北東州・北州・ムプムランガ州・自由州のあたりに分布した。もう一方はングニ語族でコーサ人とズールー人が含まれ、ドラケンスバーグ山脈とインド洋の間、現在のクワズールナタール州・東ケープ州のあたりに分布した。しかし、これらの2つの集団やコイサン人は互いに頻繁に接触があったにも関わらず中央集権的な大国家が生まれることはなく分散的な政治秩序を維持し続けた。


III. ヨーロッパとの接触、オランダ東インド会社による支配          
1497年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰に到達して以来、喜望峰はヨーロッパの交易船にとって重要な補給地点となっており、それからコイ人は牛や羊を銅、鉄やたばことヨーロッパ人と交換していた。しかしほどなくしてヨーロッパ人の家畜に対する需要が急増したにもかかわらず、コイ人は牛を社会的地位を保証するステータスとして扱っており牛の売却を容易には増やそうとしなかった。これにより、牛の価格は上昇しヨーロッパ人の船員はときに牛を盗んだり強奪したので、コイ人による次に来る船団に対する復讐攻撃が頻発。喜望峰は供給地として不安定な状況に陥り、ついに当時の覇権国であったオランダが現地人との関係構築に乗り出した。

1652年にはオランダ東インド会社から派遣されたヤン・ファン・リーベックが補給基地の建設に着手。社宅、水路、農園を建設し城砦を築いた。当時ケープへ寄港する船舶は少なく採算を取れず、会社としても入植を推進して産業を興そうなどとは考えていなかったが、リーベックは会社を説得し補給地の食糧確保のため9名の社員を解雇し自由市民として農業のための土地を与え、現地人との取引の許可や免税特権を与えた。さらに、1657年にはポルトガル領アンゴラから170名の奴隷が輸入され奴隷制社会を導入。その後1807年のイギリスの奴隷禁止まで6万名の奴隷がこの地に運ばれたとされる。また、1688年にはプロテスタントを弾圧していたフランスからオランダ本国へ流れ込んだプロテスタントの一派ユグノー約200名がケープへ入植者として送還されるなど、白人の入植が進行。18世紀初めには約700の会社従業員ほか約1600の入植民、約1100の奴隷と地元の牧畜民が居住していたという。町はオランダ風の白い石造りの家並みや教会の塔に彩られ18世紀末には自由市民は約1万4000、奴隷は1万5000まで増加。商工業・農業・牧畜業などの分業体制も確立され経済的に発展した。
この間、コイ人によるオランダに対する蜂起は断続的に続けられたが、強力な軍事力を持つオランダはこれを退け続け、コイ人を殺傷し子供や土地・家畜を奪ったためコイ人は衰退し白人農場に雇われるか、カラハリ砂漠などの痩せた土地への移動を余儀なくされた。
白人農場は拡大するにつれてバンツー系民族最南端の民族で南アフリカ東岸部に住んでいたコーサ人と接触し、戦争を開始するがコーサ人はこれに良く持ちこたえる。しかし、19世紀半ばに呪術師の言葉に従い全ての牛を殺しと穀物を焼くという事件が起きたことをきっかけにほぼ一世紀にわたる戦争に敗北した。


IV. オランダの衰退とイギリスの進出          
リーベックがケープに入植した1652年にオランダはイギリスによる航海法の布告をきっかけに、北海での貿易や漁業、植民地などをめぐり第一次英蘭戦争に突入。1954年には若干オランダ劣勢で引き分ける形で終了したが1965年には第二次英蘭戦争に突入しテムズ川河口に迫る成果を挙げ巻き返し航海法をオランダに有利なものに変更した。さらに1672年には同年に起こる蘭仏戦争をにらみイギリスが第三次英蘭戦争を仕掛け、英仏連合艦隊でオランダ本土上陸をねらったがオランダはこれを退けた。しかし戦後オランダの国力は急速に衰退しイギリスが代わって海上の権力を掌握。オランダ東インド会社も1794年に破産を宣言し、翌年にはイギリスがケープを占領した。1802年にはフランスとの和睦のため一旦撤退するがその四年後には英仏戦争が再開したため再び占領。1814年には正式にイギリス領ケープ植民地が宣言された。


<参考>
Afọlayan, Funso S. 2004. Culture and Customs of South Africa. Culture and Customs of Africa. Westport, Conn: Greenwood Press.

宮本正興・松田基二(1997)『新書アフリカ史』講談社現代新書(p.354-363)

コイサン語系諸族(サン人・コイ人)

【コイサン語系諸族(コイサン)】
南アフリカやナミビアに分布するサン人(サン族)とコイ人(コイ族)の総称。
両民族は異なる出自を持つと考えられているが、ともにクリックと呼ばれる吸着音を特徴とする言語を使用することや、白人入植以前の長い年月の中で通婚などを通した交流が進み文化的にかなり共通点が多いことからこのように総称される。

【サン人】
かつてアフリカ大陸中央から南東部にかけて分布していたと考えれる狩猟採集民族。
はじめて白人入植者が接触した時には、ブッシュマン(蔑称)と呼んだが、「安定かつ強靭、きれい好きで繊細。若く無垢、謙虚だが遠慮がない」(Afolayan, 2004, p.25) と評したという。一般的に背は低く、肌は明るい茶色をしている。
20から80の核家族からなるバンド(狩猟採集民族の社会集団)を社会集団として生活し、洞窟等での野営と移動を繰り返し水源や狩場をめぐっていた。富・資本の集積はサン社会では進まなかったため社会構造はかなり平等で階級は存在しなかったが、男女間での役割分担は存在し、男は狩りを担当し女は子供の世話や食用植物の採集を担った。また、木や石を使って生活用品を作り、矢じりの先に毒を塗るなどしていた。
現在ではバンツー系民族に追いやられる形でナミビア周辺の半砂漠地帯にのみ住んでいるが、多くは白人農場で雇われており明確な文化単位としては認識されていないが、一部ではいくつかのバンドが自律的に存続している。宗教的には天上神と悪霊を崇拝する体系を持ち祖先儀礼は行わない。

【コイ人】
ボツワナのカラハリ砂漠北部から広まり南西アフリカに広く分布していたと考えられる狩猟採集・遊牧民族。
白人入植者にはホッテントット(蔑称)と呼ばれ、彼ら自身は他民族と区別するためコイコイ(男の中の男)と自称した。外見や言語はサン人に似ているが、サン族とは違い遊牧を行ったため相対的に豊かで富の集積が進み南アフリカ西部やナミビアの一部で支配的な勢力に成長した。
現在では白人入植者との混血が進み、一部を除き賃労働に従事している。宗教的には伝統的呪術信仰よりもキリスト教の影響が強い。

<参考>
ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版「コイサン語系諸族」「サン族」「コイ族」

アフリカーンス語

南アフリカ共和国の公用語のひとつ。
1652年に南アフリカがオランダの植民地になった時に流入したオランダ語が現地で独自の発展を遂げたもの。音声的にはオランダ語とほとんど変わらないが、文法的にかなり簡略化されている。

<参考>
ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版「アフリカーンス語」

【国別情報】南アフリカ共和国

I. 基本情報                    sf-map  sf-lgflag
人口:5300万人
面積:約120万㎢(日本の約3倍)
首都:プレトリア(行政都で首都)、ケープタウン(立法都)、ブルームフォンテーン(司法都)
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GDP:3兆6600億ドル
一人あたりGNI:7410ドル(日本の約6分の1)

*世界銀行の2013年データより


II. 人口構成                      
i) 民族(2014調査)
黒人(80.2%)、白人(8.4%)、混血〔カラード〕(8.8%)、インド・アジア人(2.5%)

ii) 言語
(2011調査)
公式言語:ズール語(22.7%)、コーサ語(16%)、アフリカーンス語(13.5%)、英語(9.6%)、ペディ語(9.1%)、ツワナ語(8%)、ソト語(7.6%)、トンガ語(4.5%)、スワジ語(2.5%)、ベンダ語(2.4%)、ンデベレ語(2.1%)
その他公式でない言語(2.1%)

iii) 宗教
(2001調査)
プロテスタント(36.6%)、カトリック(7.1%)、その他のキリスト教宗派(36%)、ムスリム(1.5%)、その他(2.3%)、不明(1.4%)、特定の宗教に属さない(15.1%)

*CIA World Factbook より

III. 歴史                        

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日本アフリカ関係②:貿易

日本の対アフリカ貿易に関して、岡田(2007)の整理を通して学んでみましょう。

I. 時代別の量的な特徴                           file3021258241702
  i) 1960年代以前
    a) 輸出
日本の輸出はまだ主に繊維製品を中心とする軽工業品が大きな割合を占め、総輸出額の17.5%はアフリカに対する輸出で占められた。
    b) 輸入
言及なし、少量。

  ii) 1970年代から90年代
    a) 輸出
日本の対アフリカ輸出入ともに拡大したが、対先進国での貿易がそれを上回る速さで拡大したため総貿易額中のシャアでは減少を続けた。総額ベースで見ても80年代以降は急減している。
    b) 輸入
輸出ほぼ同様

  iii) 2000年以降
    a) 輸出
日本の対サブサハラ輸出拡大の中心は南アフリカで、90年代後半から2006年までほぼ半分を占めている。対南アフリカ輸出の52%は日系メーカーの輸出としての自動車・同部品、33%がインフラ投資の増加としての機械・電気機械である(2006)。南アフリカ以外のサブサハラアフリカへの輸出の69%は輸送用機械であるがその内3分の1以上がリベリアの便宜船籍のための輸出で、輸出全体から船舶輸出を除けば自動車・同部品の占める割合は57%となる。
    b) 輸入
90年代後半に南アフリカの民主化により同国との貿易が拡大し、2000年以降にはそのほかのサブサハラ諸国との貿易も急拡大する。南アフリカからの輸入は主に貴石・金属等の資源が多いが、南アフリカに生産拠点を持つドイツ自動車メーカーが日本への輸出を始めたことで2000年以降は自動車等の輸入が急拡大し15%を占めるに至った(2006年)。一方で、南アフリカ以外のサブサハラ諸国からの輸入の増加に関しては主に原油輸入の増加が原因である。

II. 評価                                    
世界的な資源獲得競争の中で日本の製造業のため原材料を確保するためにはサブサハラの資源は不可欠で、日本企業のグローバル化実現にはサブサハラ市場は避けて通れれない。そのため、日本とサブサハラの貿易関係は資源輸入と日本のお家芸たる自動車輸出の二つに集中している。


<参考>
岡田茂樹(2007)「日本とサブサハラ・アフリカの貿易・投資」『成長するアフリカ—日本と中国の視点 (会議報告)
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Kidou/pdf/2007_03_03_5_okada_j.pdf

南アフリカの真実和解委員会(TRC)

010<目的>                                 
南アフリカのアパルトヘイト体制における暴力の加害者の処遇の決定。





<特徴>                                    
加害者の法的責任を追及せず、真実を告白することによって罪を免除し「和解」するという手法を取った。TRCは(1)事実を調査し、(2)加害者によるすべての真実の告白をもって罪を免除し、(3)被害者への補償を提案することが主な任務であった。また、国家側による罪だけでなく、ANC等の解放勢力側の罪も扱った。ただし、解放勢力側の暴力は適切であると認められる範囲である程度許容され、解放活動の範囲を超えた暴力について扱われた。

<経緯>                                    
公聴会が開かれすべてインターネット上で公開された。被害を訴えた人々の9割はアフリカ人で、その半分以上は夫や息子を失った女性であった。公聴会は農村まで出張し、証言する被害者への精神的サポートも行われた。また、殺人等の個別事件だけでなく体制としてのアパルトヘイトを明らかにするため企業・メディア等各種社会組織に特別の調査が行われた。

<結果>                                    
7000人の免罪申請を審査し、4500人の免罪を否認、125人の免罪を認定(1998年時点)。実際に殺人・誘拐等に手を下した人間ではない大統領等の体制の責任者への追及が十分に及ばず、今後の通常の司法による訴追に委ねられた。

<評価>                                    
国際社会:おおむね好評価
遺族:「和解」という手法は白人の政治力・経済力に対する妥協に過ぎない。
旧政府・ANC:個別事件についてではなく、当時一定以上の地位にいた者をまとめて免罪するべき。


<参考>
永原陽子(1999)「南アフリカの真実和解委員会」『アフリカ・レポート』No.28 URL:http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAF/ZAF199903_012.pdf
BBC. (1998). TRC: The facts. URL: http://news.bbc.co.uk/1/hi/special_report/1998/10/98/truth_and_reconciliation/142369.stm

【熱気】NEC、ナイジェリアで生体認証事業を狙う

who what 5  NECのアフリカでの生体認証事業についてNHK記事とNECのサイトから紹介します。
 南アフリカでの事業についてはNECが成功事例として紹介しているものを参考にしていますのでかなり褒めちぎっておりますがあしからず。

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NECがナイジェリアで役所の住民システムへの生体認証システムの納入を目指している。
1億7000万人で世界7位の人口規模・豊富な原油資源を背景に年7%成長を続け、昨年には南アフリカを抜きGDP規模でアフリカ最大となったナイジェリアで貿易見本市が開かれ、日本企業30社を含む900社が出展した。
その中でNECは顔認証システムを実演し「空港のセキュリティに使える」などの好評を得た。

NECは既にナイジェリア首都ラゴスで指紋認証技術を使った住民登録システムの導入試験を行っている。
国民の多くが60%がいまだに1日1.25ドル以下で暮らしているナイジェリアにおいては効率的な行政システムを確立することも大きな課題の一つだ。このシステムによって個人の失業状況の追跡等が可能になるし、重複登録による年金不正受給などの不正も防ぐことができる。
NECはナイジェリアのすべての州でこのシステムを納入すると息巻く。

それ以外にもNECは世界の各地で生体認証ビジネスを展開しており、南アフリカ内務省では既に2001年から段階的に指紋認証による住民登録システムが導 入されており、それまで書類によって行われていた作業が省略し効率的な行政を実現している。このシステムによるIDが自動車の購入からレンタルビデオまで 南アフリカでは様々な場面で必要とされる。システムの維持管理のための地元の技術者や役人の教育を通して地元経済の潜在力強化にも貢献しているし、多様な人種が暮らし人種間の利害関係が複雑な南アフリカにおいて、このような一元的なシステムで国民を登録することは国民統合のための象徴的な意味を持っている。

参考

NHK World News (2014) "Eyeing the Opportunity in Nigeria" 2014/12/15.
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/news/worldupdate/20141215.html

NECウェブサイト 指認証システムの導入事例:南アフリカ内務省
http://www.nec.com/en/case/sa/