アフリカまとめ

アフリカニュース、アフリカ経済、アフリカ政治、アフリカ文化、海外ビジネス、開発経済、国際政治などについて記事を書いています。不完全な記事も多く個人的スクラップのようなものが多いですが何かの役に立てば幸いです。

事典

海外直接投資(FDI)

I.  定義                          

国境を超える投資のうち、企業が海外に支店や子会社を設置したり、海外企業の経営権の支配・関与を目的として出資をするもの。

IMFは「居住者による、非居住者企業(子会社・関連企業・支店)に対する永続的権益の取得を目的とする国際投資」と定義している。
統計的には、総株数の10%以上の出資は経営に関与することを目的とするとみなされ直接投資として計上され、10%以下のものは配当や投機を目的とするとみなされ対外ポートフォリオ株式投資に分類される。(坂東, 2004)

II. 歴史                           


i) 初期グローバリゼーション

1840年のアヘン戦争を起点としてヨーロッパ先進国によるインフラ投資・資源開発投資が途上地域へ流れ込みはじめた時期。
この時期の海外直接投資は先進国から途上国、製造業よりも資源開発で、英国・米国のアングロサクソン系国家が全体の6割を占めていた。加えてこの時期の貿易ルールは自由貿易が原則で、人の移動も原則自由だった。例えば日本の開国の際も日本に不利な自由貿易原則が通されたし、外国人の国内移動も後に自由になった。

【1914年の海外直接投資の様子】(大石(2012)で引用されたJones(2005)を参考)
・累積海外直接投資:イギリス(45%)、アメリカ(14%)、ドイツ(14%)、フランス(11%)、オランダ(5%)
・累積海外直接投資受入れ:ラテンアメリカ(33%)、アジア〔主に中国〕(22%)、東ヨーロッパ(10%)、アフリカ(6%)
・産業分野別累積:天然資源(55%)、製造業(15%)、サービス〔公共事業含む〕(30%)

ii) 戦間期ブロック経済

第一次世界大戦をきっかけとして初期グローバリゼーションの流れは打ち切られる。第一次大戦の勃発による国籍識別の必要性から人の自由が制限され、その後の世界恐慌をきっかけとした金本位制の停止により資金のの出入りも厳格に管理されるようになった。加えて英仏米などはブロック経済を形成して保護主義的貿易政策をとり新興の工業国(日・独・伊など)は市場から締め出された。
この時期には外国企業は国有化されるか、資本と経営の現地化を余儀なくされ政治だけでなく経済の分野においても国家主義が支配的になっていった。

iii) 国民経済期


二次大戦後はパックスアフリカーナの元、GATT・世界銀行・IMFなどの国際体制が整備され国際貿易は再び活性化した。しかし、アメリカ以外は各国とも大戦からの復興に力を入れざるを得ず、自国産業の育成に政策の力点が置かれ国家による経済の管理が行われた。
またこの時期の海外直接投資は先進諸国間で、主に製造業・サービス業の分野で行われていたことであり、初期グローバリゼーションの時のものとは質の異なるモノであった。

iv) 第二次グローバリゼーション

インターネットの普及による情報伝達の飛躍的な効率化、WTOを軸とした自由貿易主義の拡大などの影響で再び世界はグローバリゼーションの時代に突入した。
実際、海外直接投資は先進国から途上国へ、資源・エネルギー分野への流れが成長しており、第一次グローバリゼーションと相似している。また、近年では途上国企業による途上国への投資もまた増加している。

以上、大石(2012)より


III. 理論                                    
雁行形態論
OLIバラダイム
シグナリング理論
など


<参考>
多国籍企業学会(2012)『多国籍企業と新興国市場』大石芳裕・桑名義晴・田端昌平・安室憲一監修 文眞堂
坂東達郎(2004)「海外直接投資」渡辺利夫・佐々木郷里編『開発経済学事典』弘文堂

南アフリカの歴史②(ムフェカーネ・グレートレック・連邦の成立)

I.  ズール王国、ムフェカーネの時代                   

オランダが没落しイギリスにケープの支配権が移っていっていた18世紀末頃、まだヨーロッパ人の支配の及んでいなかった南アフリカ北東部ではバンツー人の政治集団同士が戦争等を通じて統合され中央集権的な国家が生まれつつあった。19世紀初めにはデラゴア湾やナタールの内陸地で多数の王国が合従連衡しながら興亡したが、有力国家の属国の一つであったズールー国王でその属する国家の軍人であったシャカが力を付けはじめ、ついには地域の覇権を握った。シャカは才能ある指導者であったが、同時に残酷なまでに冷酷だった。シャカはングニ社会(ズールー人の属する文化圏)の伝統的年功序列制度を基礎として強力な軍隊を作り上げ周辺の民族へ進攻。既存の民族の長の地位を認める代わりに王国への服従と家畜等の貢納を要求した。ズール人としての統一した国民意識も各人の出自に関わらず求められた。しかし、シャカの残忍さと度重なる戦争は王国内を不安定な状態に陥れ1828年にはシャカが暗殺され死亡した。シャカによる支配からズールー王国の崩壊までの混乱の時代、多くの民族がシャカの支配から逃れようと地域から離散していき新天地を求める過程で衝突を繰り返しながら離合集散していった。この時代を南アフリカ史ではムフェカーネ(衝突)と呼んでいる。ズールー王国崩壊後は代わってンデベレ、スワジ、ソト、ガザなどの国が台頭したが、シャカが残した惨禍と混乱は長く尾を引き、生活に困窮した人々は仕事を求めてケープに流れ込んだ。


II. イギリスの植民地政策、ボーア人のグレートトレック       


1795年、イギリスは当時フランスの強い影響下にあったオランダ(バタビア共和国)から、アジア航路の重要な中継地であるケープがフランスの手に落ちてしまうことを恐れこれを占領する。1802年には英仏の間で和睦が成立しケープはオランダ返されたが、3年後にはフランスのナポレオンとの間で対立が激化し再びイギリスが占領。1814年には正式にイギリス領ケープ植民地として宣言され、1820年には英本国の失業率の悪化に伴い低中流階級の職人らを中心とした男女、子供合わせて5000名(8万名がこの入植に応募した)が入植し、コーサ人から奪ったケープ東部の土地を開拓するよう命じられた。このときから続くイギリス人入植者らが長いオランダ支配によって広まっていたオランダ的社会文化に同化することを拒否し、自分の言語、宗教などを維持したことで既に複雑な様相を呈していた南アフリカ社会はさらに混沌とした。

ケープの獲得と並行してイギリスは1807年に奴隷貿易を禁止、1828年にはコイ人など先住民に労働場所選択の自由を与え1834年にはすべての英国植民地で奴隷制を禁止。加えてイギリスのケープ獲得後イギリス人がボーア人(オランダ系入植者)の代わりに役所、学校や裁判所の地位に就くようになったためボーア人はイギリスに強く反発。1835年にはイギリスの支配を逃れて約6000名ものボーア人がケープから北へ新天地を求めて移動を開始した。この大規模な移動はグレートトレックと呼ばれ、アフリカーナー(オランダ系入植者の子孫の現在の呼称)の歴史の中で最も重要な出来事の一つである。東部沿岸のナタールを目指した者の第一陣はズールー人に敗れたが、続いた第二陣はいわゆる「血の川の戦い」に勝利。1837年にナタール共和国が建設されたがこの動きを警戒したイギリスにより1842年には滅ぼされる。その後ナタールから逃げ延びたボーア人は内陸で他のグレートトレックと合流し1852年にトランスバール共和国を北部のリンポポ川流域地域に、1853年にオレンジ自由国をバール川・オレンジ川流域地域に建設した。この間イギリスは1843年にナタールを新たに植民地として加え、1860~70年代にかけてケープ・ナタール、トランスバール共和国、オレンジ自由国を統一した植民地にしようと試みたが失敗に終わった。


III. ダイヤモンド鉱脈・金鉱脈の発見、南アフリカ連邦の成立          

1867年のオレンジ自由国グリカランド・ウエスト、キンバレーでダイヤモンド鉱脈が発見されたことをきっかけに南アフリカの情勢は激変する。ボーア人国家の拡大を恐れたイギリスは1871年にグリカランド・ウエスト、1867年にトランスバール共和国を併合するも、2年後にはイサンドルワナの戦いでズールー人に、マジュバヒルの戦いでボーア人に敗退し1881年のプレトリア協定でトランスバール共和国の自治を認めることになる。しかし、1886年にトランスバール共和国のウィットウォータースラントで金鉱脈が発見されると、ケープと南ローデシア(現ジンバブエ)の南北から包囲作戦を実行したり、トランスバール政府転覆計画を実行したりし、最終的には1899年~1902年の第二次ボーア戦争においてボーア人国家に勝利。1910年には現在の南アフリカにあたる地域でケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由の四州でが南アフリカ連邦を構成することになった。


<参考>
Afọlayan, Funso S. 2004. Culture and Customs of South Africa. Culture and Customs of Africa. Westport, Conn: Greenwood Press.

宮本正興・松田基二(1997)『新書アフリカ史』講談社現代新書(p.364-373)

南アフリカの歴史①(コイサン人・バンツー人・オランダ支配)

I.  人類の発祥、サン族とコイ族の定着        
考古学研究によれば、南アフリカは人類発祥の最前線の地であり、300万年前のアウストラトピテクスの化石がトランスバール州や北ケープ州で見つかっており、東ケープ州からは5万年前のホモサピエンスの化石が見つかっている。
最初に現在の南アフリカに定着したのはサン人であると考えられているが、紀元前2~300年前にはコイ人が流入。サン人もコイ人も狩猟採集で生計を立てていたが、コイ人は牧畜も営んだため相対的に豊かになった。そのため、サン社会では起こらなかった富の集積がコイ社会でのみ進み次第にコイ人が支配的な民族となっていった。しかし、サン人とコイ人はもともと共通点も多く、概して友好的な関係を維持し通婚もよく行われていたから現在では両民族を合わせコイサン人と呼ぶことも多い。


II. バンツー人・鉄器と農耕の流入           

紀元4世紀ごろにはバンツー人が南アフリカの地域に流入したと考えられている。。彼らの最大の特徴は狩猟採集や牧畜に加えて穀物栽培をおおない、鉄器を作成し操ることであった。彼らは現在のニジェールとカメルーンの国境付近からアフリカ各地に拡散したニジェール・コンゴ語族の一派であり大陸西部の熱帯雨林を迂回し東部の大湖群周辺のサバンナ地帯を経由し北東部より南アフリカの地域に流入したとされる。南アフリカに到達後は狩猟採集・牧畜・農耕などの混合農業を行い一定の地域に定住。コイサン人とバンツー人は概して友好的で互恵関係にあったようで、コイサン人はバンツーの農耕技術を歓迎し地域の環境や薬草学を教え、狩りで得た獲物や豆を穀物と交換したりし、牛飼いとして働いたりもした。さらにはバンツー人に女性を贈り農耕社会の労働力再生産を助けた。しかしながら、鉄器社会の圧倒的優位は徐々に両民族間の力関係を変えていき、コイサン人はゆっくりとバンツー人と同化するか、辺境へ追いやられていった。

バンツー人が南アフリカ地域で成長していく中、バンツー農民の中でも成功したものは家畜や交易の管理を通じて富を築くものがあらわれ、小規模な政治集団が現れ始める。これらの政治集団は性別分業と家父長制を特徴としており、18世紀までには2つの有力な語系集団が認められる。ひとつは、ソト・ツワナ語族であり内陸の高原で現在の北東州・北州・ムプムランガ州・自由州のあたりに分布した。もう一方はングニ語族でコーサ人とズールー人が含まれ、ドラケンスバーグ山脈とインド洋の間、現在のクワズールナタール州・東ケープ州のあたりに分布した。しかし、これらの2つの集団やコイサン人は互いに頻繁に接触があったにも関わらず中央集権的な大国家が生まれることはなく分散的な政治秩序を維持し続けた。


III. ヨーロッパとの接触、オランダ東インド会社による支配          
1497年にバスコ・ダ・ガマが喜望峰に到達して以来、喜望峰はヨーロッパの交易船にとって重要な補給地点となっており、それからコイ人は牛や羊を銅、鉄やたばことヨーロッパ人と交換していた。しかしほどなくしてヨーロッパ人の家畜に対する需要が急増したにもかかわらず、コイ人は牛を社会的地位を保証するステータスとして扱っており牛の売却を容易には増やそうとしなかった。これにより、牛の価格は上昇しヨーロッパ人の船員はときに牛を盗んだり強奪したので、コイ人による次に来る船団に対する復讐攻撃が頻発。喜望峰は供給地として不安定な状況に陥り、ついに当時の覇権国であったオランダが現地人との関係構築に乗り出した。

1652年にはオランダ東インド会社から派遣されたヤン・ファン・リーベックが補給基地の建設に着手。社宅、水路、農園を建設し城砦を築いた。当時ケープへ寄港する船舶は少なく採算を取れず、会社としても入植を推進して産業を興そうなどとは考えていなかったが、リーベックは会社を説得し補給地の食糧確保のため9名の社員を解雇し自由市民として農業のための土地を与え、現地人との取引の許可や免税特権を与えた。さらに、1657年にはポルトガル領アンゴラから170名の奴隷が輸入され奴隷制社会を導入。その後1807年のイギリスの奴隷禁止まで6万名の奴隷がこの地に運ばれたとされる。また、1688年にはプロテスタントを弾圧していたフランスからオランダ本国へ流れ込んだプロテスタントの一派ユグノー約200名がケープへ入植者として送還されるなど、白人の入植が進行。18世紀初めには約700の会社従業員ほか約1600の入植民、約1100の奴隷と地元の牧畜民が居住していたという。町はオランダ風の白い石造りの家並みや教会の塔に彩られ18世紀末には自由市民は約1万4000、奴隷は1万5000まで増加。商工業・農業・牧畜業などの分業体制も確立され経済的に発展した。
この間、コイ人によるオランダに対する蜂起は断続的に続けられたが、強力な軍事力を持つオランダはこれを退け続け、コイ人を殺傷し子供や土地・家畜を奪ったためコイ人は衰退し白人農場に雇われるか、カラハリ砂漠などの痩せた土地への移動を余儀なくされた。
白人農場は拡大するにつれてバンツー系民族最南端の民族で南アフリカ東岸部に住んでいたコーサ人と接触し、戦争を開始するがコーサ人はこれに良く持ちこたえる。しかし、19世紀半ばに呪術師の言葉に従い全ての牛を殺しと穀物を焼くという事件が起きたことをきっかけにほぼ一世紀にわたる戦争に敗北した。


IV. オランダの衰退とイギリスの進出          
リーベックがケープに入植した1652年にオランダはイギリスによる航海法の布告をきっかけに、北海での貿易や漁業、植民地などをめぐり第一次英蘭戦争に突入。1954年には若干オランダ劣勢で引き分ける形で終了したが1965年には第二次英蘭戦争に突入しテムズ川河口に迫る成果を挙げ巻き返し航海法をオランダに有利なものに変更した。さらに1672年には同年に起こる蘭仏戦争をにらみイギリスが第三次英蘭戦争を仕掛け、英仏連合艦隊でオランダ本土上陸をねらったがオランダはこれを退けた。しかし戦後オランダの国力は急速に衰退しイギリスが代わって海上の権力を掌握。オランダ東インド会社も1794年に破産を宣言し、翌年にはイギリスがケープを占領した。1802年にはフランスとの和睦のため一旦撤退するがその四年後には英仏戦争が再開したため再び占領。1814年には正式にイギリス領ケープ植民地が宣言された。


<参考>
Afọlayan, Funso S. 2004. Culture and Customs of South Africa. Culture and Customs of Africa. Westport, Conn: Greenwood Press.

宮本正興・松田基二(1997)『新書アフリカ史』講談社現代新書(p.354-363)

コイサン語系諸族(サン人・コイ人)

【コイサン語系諸族(コイサン)】
南アフリカやナミビアに分布するサン人(サン族)とコイ人(コイ族)の総称。
両民族は異なる出自を持つと考えられているが、ともにクリックと呼ばれる吸着音を特徴とする言語を使用することや、白人入植以前の長い年月の中で通婚などを通した交流が進み文化的にかなり共通点が多いことからこのように総称される。

【サン人】
かつてアフリカ大陸中央から南東部にかけて分布していたと考えれる狩猟採集民族。
はじめて白人入植者が接触した時には、ブッシュマン(蔑称)と呼んだが、「安定かつ強靭、きれい好きで繊細。若く無垢、謙虚だが遠慮がない」(Afolayan, 2004, p.25) と評したという。一般的に背は低く、肌は明るい茶色をしている。
20から80の核家族からなるバンド(狩猟採集民族の社会集団)を社会集団として生活し、洞窟等での野営と移動を繰り返し水源や狩場をめぐっていた。富・資本の集積はサン社会では進まなかったため社会構造はかなり平等で階級は存在しなかったが、男女間での役割分担は存在し、男は狩りを担当し女は子供の世話や食用植物の採集を担った。また、木や石を使って生活用品を作り、矢じりの先に毒を塗るなどしていた。
現在ではバンツー系民族に追いやられる形でナミビア周辺の半砂漠地帯にのみ住んでいるが、多くは白人農場で雇われており明確な文化単位としては認識されていないが、一部ではいくつかのバンドが自律的に存続している。宗教的には天上神と悪霊を崇拝する体系を持ち祖先儀礼は行わない。

【コイ人】
ボツワナのカラハリ砂漠北部から広まり南西アフリカに広く分布していたと考えられる狩猟採集・遊牧民族。
白人入植者にはホッテントット(蔑称)と呼ばれ、彼ら自身は他民族と区別するためコイコイ(男の中の男)と自称した。外見や言語はサン人に似ているが、サン族とは違い遊牧を行ったため相対的に豊かで富の集積が進み南アフリカ西部やナミビアの一部で支配的な勢力に成長した。
現在では白人入植者との混血が進み、一部を除き賃労働に従事している。宗教的には伝統的呪術信仰よりもキリスト教の影響が強い。

<参考>
ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版「コイサン語系諸族」「サン族」「コイ族」

雁行形態論

英訳:Flying-geese model

赤松要氏により1900年代中ごろに提起された後発工業国の発展パターンを説明する理論。
【後発国の発展パターンとしての雁行形態】
①輸入期
ある産業が後発国内で発展を始めるとき、国内の潜在需要を喚起するために先発国から製品を輸入する。
②輸入代替期
輸入品により潜在需要が喚起され製品の市場ができるため国内企業も生産を開始し、国産製品によって輸入品を代替していく。
③輸出期
国内需要を国内生産が上回り輸出をはじめる。

以上のような発展段階をグラフ上に描くと、輸入量・輸入代替生産量・輸出量が雁行のように次々と山を描くことから雁行形態論と名付けられた。

【アジア諸国の発展パターンとしての雁行形態】
アジアではまず日本が軽工業分野で工業化に成功した。その後日本の産業が重工業に移っていくにつれ軽工業の中心はNIES国等の新興国へと移っていきさらにNIES国も重工業化に成功すると、今度はASEAN諸国へ軽工業の中心はうつっていった。近年では日本・韓国など多くの国が高度に知識集約的な情報産業分野に移っていく中、ASEAN諸国も重工業化に成功し、CLMV諸国に産業化の波が移ってきている。

このようにアジア諸国が群れを成して順々に産業化に成功していく様子が雁行のようである点ものちに雁行形態的であるとされた。
また、このような経過の中で海外直接投資が先発国から後発国へ行われることも強調される。


<参考>
森脇祥太(2004)「雁行形態論」渡辺利夫・佐々木郷里編『開発経済学事典』弘文堂
長谷川啓之(2010)「アジアの工業化と経済発展:1つの雁行形態論批判(1)」『IAM Newsletter』第6号





アフリカーンス語

南アフリカ共和国の公用語のひとつ。
1652年に南アフリカがオランダの植民地になった時に流入したオランダ語が現地で独自の発展を遂げたもの。音声的にはオランダ語とほとんど変わらないが、文法的にかなり簡略化されている。

<参考>
ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版「アフリカーンス語」

【国別情報】南アフリカ共和国

I. 基本情報                    sf-map  sf-lgflag
人口:5300万人
面積:約120万㎢(日本の約3倍)
首都:プレトリア(行政都で首都)、ケープタウン(立法都)、ブルームフォンテーン(司法都)
sf_large_locator
GDP:3兆6600億ドル
一人あたりGNI:7410ドル(日本の約6分の1)

*世界銀行の2013年データより


II. 人口構成                      
i) 民族(2014調査)
黒人(80.2%)、白人(8.4%)、混血〔カラード〕(8.8%)、インド・アジア人(2.5%)

ii) 言語
(2011調査)
公式言語:ズール語(22.7%)、コーサ語(16%)、アフリカーンス語(13.5%)、英語(9.6%)、ペディ語(9.1%)、ツワナ語(8%)、ソト語(7.6%)、トンガ語(4.5%)、スワジ語(2.5%)、ベンダ語(2.4%)、ンデベレ語(2.1%)
その他公式でない言語(2.1%)

iii) 宗教
(2001調査)
プロテスタント(36.6%)、カトリック(7.1%)、その他のキリスト教宗派(36%)、ムスリム(1.5%)、その他(2.3%)、不明(1.4%)、特定の宗教に属さない(15.1%)

*CIA World Factbook より

III. 歴史                        

「南アフリカの歴史①(オランダの支配まで)」へ

「南アフリカの歴史②」執筆中

その他の関連記事を、タグ「南アフリカ」で調べる。

スワヒリ詩

スワヒリ文学の中でもスワヒリ詩について。


I. トパン(Topan)(1974)による分類                                     
i) 詩(mashairi)

同じ音数(ふつう16音以内)によりなるいくつかの行(ふつう6つ以内)からなる句を組み合わせることで作られる。もっとも一般的で人気のある詩形であり、スワヒリ語の新聞やタンザニアやケニアのラジオ番組でよく紹介される。

ii) 歌(nyimbo za kienyeji)

土着の歌で、婚礼・割礼の儀式などの伝統的な慣習とともに詠われる。

iii) 現代歌
1920年代以降のインド洋沿岸地域の大衆娯楽文化として発展したとみられ、多様な形式をとり社会的・政治的なメッセージを含む歌。

iv) 現代詩(mashakiri ya kisasa
英語詞の影響を受けて20世紀後半になって出現した詩。主に若者によって作られ、社会への適応・社会規範と自己の信念との間での葛藤などの現代的な主題が扱われた。伝統的な詩と違い特に韻律の制限はなく、伝統的な詩が重要な主題を最初に不変のものとして提示しそれにこたえていく形で詩を展開するのに対し、現代詩は順を追って主題を説明していく。右のような違いのため少なくとも1970年代の時点では「非スワヒリのもの」として批判されていたが、現在における評価は要調査。


<参考>
Farouk M. Topan (1974). Modern Swahili poetry. Bulletin of the School of Oriental and African Studies, 37, pp 175-18

スワヒリ語

東アフリカ地域のタンザニア・ケニア・ウガンダ・コンゴなどで共通語の役割を果たす言語。

I. 歴史                                  
古代から季節風を利用して行われ発展してきたインド洋貿易を通して東アフリカ沿岸にアラブ人が多数移住していたため、現地女性と単身出来たアラブ商人との通婚等を通して現地のバンツー人の文化とアラブ文化が融合した文化ができた。本来はアラブ・イスラム色の強い文化であったが、言語としてのスワヒリ語は19世紀後半にアラビア文字ではなくローマ字で表されるようになり文化的に中性になっていった。そのためキリスト教徒を含む多くの東アフリカにすむ人々に使用されるようになり、現在のような東アフリカの共通語としての地位を確立するに至った。


<参考>
宮本正興・松田基二 (1997) 『新書アフリカ史』 講談社現代文庫 P.244-288

アフリカ文学

アフリカ大陸に分布する、各民族に固有の文学がある。しかしながらそのほとんどは口承文学であり文字により著された記載文学になっていない。口承文学の一部は研究者により文字におこされているが口承文学はそのリズムや韻なども大きな要素であり起こされた文字だけを見て口承文学を完全に理解することはできない。
近代になってからはアフリカ人作家によるヨーロッパ言語小説が生まれたり、現地語による記載文学もあらわされるようになってきている。
描かれるテーマをあえて一般化するならば、伝統的口承文学において民族の歴史や行動規範・価値体系を物語を通して表現するものがよくみられ、近代以降の文学では独立闘争や近代化・西洋化を取り扱ったものが多い。


【アフリカ文学分類(一部の認知度の高いもの)】
I. 現地語文学

i) 東アフリカ
エチオピア文学
カメルーン語文学
キクユ文学(ケニヤ)
スワヒリ文学(東アフリカ)
ソマリ文学(ソマリア周辺)

ii) 西アフリカ
アシャンティ文学(ガーナ)
イグボ文学(ナイジェリア)
ハウサ文学(ナイジェリア)
ヨルバ文学(ナイジェリア)

iii) 南部アフリカ
コーサ文学(南アフリカケープ州)
ショナ文学(ジンバブエ)
南ソト文学(南アフリカ)
ズールー文学(南アフリカナタール州)


II. ヨーロッパ言語文学
i) 英語
ii) アフリカーナー語
iii) 仏語
iv) 独語



<参考>
Encyclopedia Britannica. African Literature.
http://www.britannica.com/EBchecked/topic/8275/African-literature