スワヒリの古い民話の中の1つの要約です。
この作品から見て取れるスワヒリ文化とはどのようなものでしょうか?

「百匹の牛で買われた女」

ある裕福な家庭の若い男が両親の遺産として100匹の牛を継ぎました。しかし、ある別の金持の家の美しい女性を妻として得るためにそのすべてを結納として支払ってしまいました。
当然男は食うものにも困り雇われ労働者としてあくせく働き始めるのですが、妻の女の父親が家に来ることになり夫婦は自分たちが貧しいことを隠そうとしました。男は雇い主から肉と牛乳を借り、女は少しだけ娼婦として働くことになりました。女は四分の一頭分の牛肉で買われることになりましたが、間の悪いことに相手の男が来たときには夫と父親が食卓を囲んでおり、相手の男がとりあえず一緒に食卓を囲むことになりました。
女が肉の乗った皿を食卓に運び、夫が受取ろうと手を上げると女は
「さっさと食べなさいよ!この愚か者たち!」
と言い出したので、父は
「なんで私が愚かなんだい?」
と聞きました。
「お父さん、あなたは大切なものをどうでもいいものと交換したわ。」
「わたしが何をどうでもいいものと交換したというんだい?」
「私よ、お父さん。お父さんは私のことを安く売り過ぎた。」
「なぜ?」
「お父さんは私以外に娘も息子もいないでしょ?なのに私を100匹の牛で売った。だってお父さん、お父さんはもう6000匹は持っているでしょう?なのに100匹の牛が私より価値のあるものだと考えた。だから愚かだっていてるのよ。」
女がそういうので父も
「そうだったな、私が愚かだったよ。わが娘よ。」
と認めました。
すると夫もまた
「じゃあ教えてくれよ、俺のどのあたりが愚かだって言うんだ?」
と聞いてきます。
「あなたは父よりももっと愚かよ。」
「なんで?」
「あなたは100匹も牛を継いだのにそのすべてと交換に私と結婚した。このあたりの町には10匹か20匹の結納で十分な女性もたくさんいたのに、あなたは見もしなかった。自分の持つすべての牛と引き換えに私と結婚して、後には何も残らなかったじゃない。私たち自身が食べるものさえなくて雇われの身になって、自分が食べるものを得るために他の人の牛の乳を搾ってる。牛を半分も残しておけば、食べるものぐらいはあったじゃない。だから、あなたは愚かだって言ってるのよ、このバカ。」
今度は女を買いに来た男が尋ねました。
「よしじゃあおれはどこが愚かなんだ?教えてくれよ。」
「あなたは他の2人よりもっと愚かよ。」
「なんでさ?」
「あなたはたった4分の1の牛で買おうとしていた。100匹で買われていたものをね!愚かじゃないとでも思うのかしら?」
女を買おうとしていた男は飛び上がって急いで逃げ帰っていきました。
(終わり)

解説 (Robert, 1992)                             

この物語を読むと、女性を商品として取引することの愚かさのようなものを現代人は読み取ってしまいそうだが、実際にはそのようなものは埋め込まれていない。イスラム文化の影響を強く受けたスワヒリ文化にとって女性が商品のように取引されることは当たり前のことで、この民話が批判しているのは女性を交換することそれ自体ではなく、その交換の仕方の拙さについてである。
ヨーロッパ的な価値観(この場合フェミニズム)で他の文化の文学を理解しようとすると間違えた解釈を得てしまう。



<参考>
Phillipson, Robert. 1992. “Balzac in Zanzibar: The Swahili Novel as Disseminator of Bourgeois Individualis.” Research in African Literatures 23 (3): 85–98.