*主にScott (2006)より
I.  民族の入れ替わりと王国の形成                          
紀元前5世紀~紀元10世紀:バンツー語族が西アフリカより移動し、原住民だったコイサン語族を追放、あるいは通婚などを通し同化する。
トンガ人は1200年頃には東方から現在のザンビア南部に移住。ベンバ人・ロジ人等そのほかの民族はルアラバ川周辺の人口圧力に押される形で、現在のコンゴに位置したルンダ・ルバ王国から1600~1750年頃に南下してきたと言われている。
最 初の近代西欧との接触は1500年頃東アフリカ交易路を開拓しだしたポルトガル人との出会いであり、奴隷貿易商は主に西から、商人はインド洋から渡ってき た。また、海外との交流については、遅くとも1世紀には南・東アフリカ地域社会は中国・ローマ・アラブなどの古代文明との交流があったことも忘れてはなら ない。
ザンビア内に定住した民俗間では民族の移動の際に頻繁に争いがあり、バンツー語族・コイサン語族、ベンバ人・マンブエ人、ベンバ人・ビサ 人、ベンバ人・ンゴニ人などの間で争いがあった。1700年頃ザンビア西方ザンベジ川氾濫原に居住したロジ人は西欧の束縛を受けず、他の民族を傘下にいれ 組織化された王国を持っていた。

II.  南アフリカ会社による支配から直轄植民地へ                   

1850年代までは西欧はザンビア地域にあまり興味を示してこなかったが、1851年にスコットランド人宣教師や探検家のリビングストンが訪れ詳細に報告したことをきっかけに、ベルリン会議の 5年後1890年には大量の白人(キリスト教宣教師・探検家)が流れ込み、さらに1890年から91年にかけてイギリス南アフリカ会社が現在のザンビアと なる領域を管理下に置きザンビアの植民地支配が始まる。イギリス南アフリカ会社は彼らの言う「保護」を与える代わりに独占的な鉱山採掘権を得るという取引 をロジ王レワニカと交わし、領域全体に支配を広げていった。同時に、南アフリカ会社は現在のザンベジ川流域で現在のジンバブエにあたる地域のンデベレ王ロ ベングラとも同様の取引を交わしており、のちの北ローデシアと南ローデシアとなった。
支配開始初期のうちは白人入植者は少数でほとんどは南アフリ カ会社鉱山開発担当者だったが、19世紀が終わるころには大規模農業を目的として多くの白人が移住した。1920年までに移住した5000人弱の白人のほ とんどは鉄道が整備された中央部に住み、それ以外の地域には開発の手は及ばなかった。そして1923年には会社による利益独占に白人入植者が反感を抱き国 民投票により南アフリカ会社による支配から英国植民省による直轄植民地へと移行。白人入植者らは立法委員会を構成し本国に高度な自治を要求するようにな る。

III.  中央アフリカ連邦の形成                            
南北ローデシアは別々の地域として高度な自治が行われていたが、もともとは同じ南ア フリカ会社に支配されていたことや、どちらも入植者が英語系であること、経済的結びつきが強いことから早くとも1930年代には何らかの形での統合あるい は連携へ向けての機運が生まれてきた。高度な自治が認められているとはいえ、地域の統合は国家の主権に関わることであり本国との交渉に時間がかかったが、 1953年には二アサランド(現在のマラウイ)を加えて中央アフリカ連邦が誕生し、連邦議会および首相がサリスブリー(現在のハラレ)に設置された。連邦 の権限は防衛・貿易・通信・産業・金融に限定され、その他教育・福祉・農業・土地政策は各州政府が管轄した。連邦が機能していた期間、イギリス本国からの 介入はほとんどなかったといってい良い。
当時北ローデシアと二アサランドとしては、インフラをはじめとする産業基盤が優れた南側と統合されること による経済的恩恵や、白人人口の多い南側との統合よる自治強化を期待していたようだが、実際には確かに自治は強化されたが経済的には北側の銅をはじめとす る自然資源・人的資本が南側のに流れ出しただけであった。このときの流れが現在のジンバブエの独立後初期の経済成長に著しく貢献したと考えられる。
その後黒人の貧困がより激しかった南側で、黒人の20万人に及んだ白人移住者への反感が高まり資源をめぐり争いが起こるようになり、さらに1960年代になって連邦の人種差別政策が国際的に受け入れられなくなってくると、1963年に連邦は解体された。

IV. 独立、カウンダ独裁政権                           za-lgflag
第 二次大戦後、インド独立(1947)の報などに刺激され始まったアフリカ諸国の独立運動に影響を受け、遅くとも1950年代後半にはザンビアでも独立運動 がはじまった。ザンビアの独立運動はハリー・ンクムブラとケネス・カウンダをリーダーとする北ローデシアアフリカ人国民会議(NRANC)(のちに単に ANCに改名)によって当初主導されたが、1958年にはイギリス政府との交渉の仕方に関し対立が生じカウンダが分離しより過激な組織としてザンビアアフ リカ人国民会議(ZANC)を設立。翌年には運動が禁止されカウンダ自身も投獄されるが、1960年には統一国民独立党(UNIP)を新たに設立した。北 ローデシアの人種差別政策は南側と比べれば比較的穏当なものだったため、独立運動の高まりを受けたイギリスの提案により独立交渉が速やかに行われ、暴力含 みとなったジンバブエの独立よりは平和的に独立プロセスが進行したといえる。手始めに1962年には立法委員会に黒人が選出され、最終的に1964年10 月24日に正式にザンビア共和国として独立した。独立に先立ち行われた議会選挙ではUNIPが圧倒的多数を獲得し、ケネス・カウンダが初代大統領に就任。 複数政党制を導入し、独立後の65の議席のうち55がUNIP、残りの10議席がANCであった。しかし、1966年に設立された統一党(UP)は設立2 年後に活動禁止、副大統領を務めたベンバ人政治家により1971年に設立された統一人民党(UPP)は設立6か月後には活動を禁止された。1972年2月 にはUPP活動禁止とほぼ同時に一党制への転換が宣言され同年12月には憲法が改正され正式に一党制に移行した。この背景として、UPPがUNIPの支持 基盤であった北部のベンバ人の支持を集めようとしたことをきっかけに政党間での民族差別的紛争が起こるようになったことがあると言われる。1973年には 改めて一党制に基づく新憲法を制定しカウンダがザンビア第二共和国大統領に就任。1991年まではUNIPの一党制・カウンダ独裁の体制が続いたが、経済 危機や国内外からの圧力により再び複数政党制に移行した。

V.  現在                                    

複数政党制のもとで行われた選挙では複数政党制民 主主義運動(MMD)がUNIPを下して第一党となりフレデリック・チルバが2代目大統領となり96年に再選。同年の憲法改正で大統領の三選が禁止された ため2002年には同党のレヴィー・ムワナワサが3代目大統領に就任。実務の登用や構造改革に取り組むが2008年8月に病死。後任に選ばれたルピア・バ ンダは前大統領の経済成長路線を継承し2030年までの長期国家戦略を策定し中進国入りを目指している。2011年9月の選挙では愛国戦線(PF)へ政権 交代し党首マイケル・サタが5代目大統領に就任した。


<参考>
平野克己監修(2011) 『日本人が知っておきたいアフリカ53か国のすべて』 レッカ社
JETRO(2014) 『ザンビア概況』 URL:http://www.jetro.go.jp/world/africa/outline/zambia_20140514.pdf
Taylor, Scott D. (2006). Cultures and Customs of Zambia. Westport: Green wood Press

※画像はCIAより