アフリカまとめ

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モザンビークの歴史

主にNdege (2007)
I.  バンツー人の移住とインド洋交易の発展                     
バ ンツー語系の民族グループが現在のモザンビークを含む南アフリカ地域一帯に移住したのは1世紀の終わりごろのことであった。バンツー人は農耕民族であった ためこの地域に集住し、アフリカ大陸東岸に都市を形成。インドやアラビアの文明と交易を行った。スワヒリ語が広く沿岸で話され、東アフリカとアラビアの交 易にも使用された。また、イスラム教も広く信者を集めた。この地のアフリカ商人は内陸アフリカとアラブ商人との間の仲介人としての役割を果たし、経済的・政治的繁栄を実現、その影響力は現在の中央アフリカまで及んだ。

II.  沿岸都市国家とモノマトパ王国の繁栄                      

a1180_0015919世紀以来 シャイフ(イスラム教系国の指導的立場を表す)を指導者とする都市国家のソファラが繁栄していた。シャイフは常にアラブ人で、他の沿岸都市国家の支配者層 との血縁を主張した。ソファラは目立って産物があるわけではなかったが、重要な港として機能し象牙・金など内陸から自国を経由する輸出や輸入に課税し繁栄 した。
また、少し内陸のモザンビーク高原も11世紀から17世紀にかけて多くの王国を育んだ土地であり、11世紀にはショナ人による王国が誕生。 王国は現在のジンバブエあたりの広い地域を支配し北方の金鉱脈地帯から東岸のソファラや西方地域への貿易を管理することで富を築いた。支配者はその支持者に象牙・ 金・食物などの貢物の一部を分け与え支配を強化し、これに魅かれた金や銅の細工師が集まった。しかし、15世紀前半には北東のモノマタパ王国の興隆や人民 の流出等に影響され衰退していった。
1480年代までにはモノマタパ王国が強大な軍事力を背景に東進へ拡大し沿岸地域まで支配を広げた。王国は国 内のマゾエ地域から砂金を産出しそれから得られる利益を用いて宝石や装飾品をアラブ・スワヒリ商人から購入した。アラブ・スワヒリ商人とは良好な関係を維 持しており、このためポルトガルがこの地にやってきたときには内陸の軍事拠点を排する一方で王国の支配者層とは関係を密にしようとした。
19世紀 初めには南方からのンゴニ人の侵入によりモザンビーク地域は多大な影響を受けた。ンゴニ人はズールー王シャカによるムフェカネ騒乱の難民のうち北に逃れた もので、1820年代にソシャンガネに率いられ現在の南アフリカからモザンビーク南部に侵入、ガザ王国を建設した。ソシャンガネの率いる軍隊により、シャ カの軍隊のような中央集権的に組織された軍隊の概念がモザンビーク地域にももたらされた。ムフェカネ騒乱以来、19世紀前半はズールーからもたらされた年 齢を基準とした徴兵制が政治的な影響を持つようになった。

III.  ポルトガルによる植民地支配の展開                      
 i) 交易の掌握

上 述のような王国の興亡の中でポルトガルは徐々に影響力を増していく。大航海時代の始まりとともに、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年にモザンビーク沿岸に到 着したが、この時点ではモザンビークの重要性はインド航路の中継地点としてのものであった。しかし、主に2つの要因によってポルトガルはモザンビーク沿岸 を直接支配することに積極的になっていく。第一に、ポルトガルはこの地における象牙と金の貿易を管理したかったこと。第二に、そのためには既存のアラブ・ スワヒリ商人を従わせねばならなかったことがである。ポルトガルは内陸部のアフリカ人を支配下に置き仲介人としての地位を認める代わりにポルトガルのその 地域における支配的地位を認めるよう要求した。当然、アラブ・スワヒリ商人はこれに対して反抗し、16世紀中争いが続いたが、16世紀末にはポルトガルは 彼らに取って代わることに成功し、ザンベジ川岸の交易拠点を掌握したうえセナ、テテ、チコヴァなどに新たに拠点を設置した。
 ii) 奴隷貿易の拡大
18世紀にはモザンビークはフランスのモーリシャスやレユニオンにおけるプランテーション農業の労働力需要を背景として奴隷貿易拠点となった。はじめはフラン スはザンベジ川流域のケリマネ等のポルトガル商人やインド商人から奴隷を購入していたが、農場の拡大に伴う過労働・過酷な労働環境により多数の奴隷は死亡 し、さらなる奴隷が必要となった。そのためフランスは東アフリカのキルワやザンジバルの奴隷市場のアラブ・スワヒリ商人からも奴隷を買い求めるようになり 内陸部への遠征にも支援をするようになる。ヤオを筆頭としてアフリカ人商人も奴隷を販売した。
1842年にポルトガルはモザンビークからの奴隷貿 易を禁止したこともあり19世紀には奴隷貿易は先細ってきており、供給は減り、奴隷の価格が上昇した。しかしポルトガルとブラジルの奴隷商人の間の結びつ きは強く、価格上昇による収益性増大に伴いブラジル奴隷商人はインド洋沿岸にまで奴隷獲得に遠征しモザンビークやザンベジ川流域から違法に奴隷を獲得し た。
 iii) 統治構造の変遷
ポルトガルによるモザンビーク支配は効率的であったとは言いがたい。彼らの支配は主に軍事 拠点と貿易拠点の内地のみに限定されていて、かつ安定的ではなかった。その理由として、第一にはポルトガルが現地に統治機構を設置せず、インドの植民地ゴ アの総督が兼轄したため政府とモザンビークの距離が遠かったことがあげられる。また、第二にポルトガルは住民に対してプラゾスと呼ばれる土地使用権を与え ており使用権を与えられた者は所有地に関し自己の裁量による管理を認められていたことである。使用権保有者はポルトガルの支配確立から数世紀をまたぐ間に 徐々に力を蓄え、ポルトガル当局に対し影響力を持ち得るほどに成長し、自治的になっていき19世紀後半のアフリカ分割の流れの中で直接支配を強めようとす るポルトガルに対し抵抗した。1891年にはポルトガルとイギリスの間でモザンビークの南部と西部の国境が画定され、ポルトガルは直接支配の確立を進め 1902年にロレンソマルケス(現在のマプト)を植民地首都とした。他のヨーロッパ列強と同様、ポルトガルも20世紀初めの20年間は鎮圧戦争を行い、 1917年に呪術師により率いられたバルエの乱を鎮圧。1932年には土地使用権制度は正式に廃止され直接支配が確立された。
 iv) 植民地期のモザンビーク経済
モザンビークの植民地経済は隣接する植民地経済に強く依存していた。鉄道は建設されたが、その目的はモザンビーク内との接続というよりは近隣のイギリス植 民地の生産物を目的としたものであったし、過酷な労働環境・低賃金での強制労働を嫌い多くの人々がましな生活を求めて近隣植民地へと離散していった。南ア フリカをはじめ近隣植民地では多くの白人入植者によって大規模農業や鉱山採掘事業が行われており、南部の人々は南アフリカへ、北部・西部の人々はジンバブ エ・マラウィ・ザンビアへ流れた。このような労働力の流出がモザンビーク植民地経済の弱さであった。

IV.  独立戦争の展開                                
  i) 独立運動の盛り上がり

第 二次世界大戦中、ポルトガルは植民地支配強化へ乗り出し、入植者数は戦前の90,000人から1960年代には200,000人に倍増した。土地は入植者 へ振り分けられ、アフリカ人はプランテーションでの労働に従事させられた。1950年代から60年代にかけて地方での反抗運動が盛り上がりを見せ、ポルト ガルはアフリカ人エリート層に対しても平等な雇用機会を与えず地位を貶め続けたため、大衆だけでなくエリート層にまで反抗運動は広がり、民族・政治・経済 的地位の違いを超えて国家独立のための機運が高まった。
独立獲得のため、1962年にはモザンビーク解放戦線(Frelimo)がエデュアルド・ モンドラーネを議長として設立される。Frelimoは武力を背景とした交渉によってのみ独立を勝ち取れるという信念に基づき、独立戦争の準備としすでに 独立していたアルジェリアに250名の兵士を送り込み訓練を受けさせるなどし、1964年にはモザンビーク独立戦争の戦端が開かれた。
  ii) 戦争の長期化
Frelimo は十分に武器もなく、指揮系統も弱く、ときに内部で論争があることもあったが、ポルトガルの支配を打倒するという点に関し強い意志を持っていた。ポルトガ ルのゲリラ対策があまりに残虐であったため同情を集めさらに多くの人々が解放運動に参加し、ザンビアやタンザニアなど近隣諸国も活動のための拠点を供与した。対ゲリ ラ作戦の目的はゲリラ兵の完全な排除であり、戦いが激しくなるにつれ地雷の設置・村落の破壊・暗殺・数千人の逮捕などが行われ解放運動への同情はさらに広がって いった。そんな中Frelimoの指導者モンドラーネが暗殺され、側近のサモラ・マチェルが引き継いだが、このマチェルがその後傑出した戦術家・指揮官と して活躍するようになる。
モンドラーネ暗殺後も衰えず数を増し一層強い意志を見せる解放運動に対し、ポルトガルは数千の軍勢をモザンビークに維持 することが難しくなってきた。折しもアンゴラやギニアビサウといった他のポルトガル植民地でも解放戦争と向き合っており、戦費がかさみ続けるとともに死傷 者も増え続け、ポルトガル国内政治にも独立戦争の行く末が影響を持ち始めた。
  iii)  リスボンクーデター、そして講和
1974 年、首都リスボンでクーデターが起き、アントニオ・ド・スピノラ率いる国家救済暫定政権が政権についた。暫定政権はすぐに植民地の自治を認めることで膠着 状態を終わらせることを宣言。Frelimoとはザンビアのルサカで講和に署名し移行政府を設置しモザンビークの独立を進めることに合意した。独立戦争は アフリカ解放闘争の中でも最も長く血にまみれたものの一つとなり、両陣営で数千人が戦死し、数百万人が国を追われ、経済は崩壊してしまったが、1975年 にマチェル・サモアのもとモザンビークは独立を果たした。独立後、Frelimoはポルトガル人入植者に復興・国家建設への支援を求めたが彼らは拒否しほ とんどが帰国していった。

V.  内戦の展開                                
  i)  南アフリカの介入
独立を勝ち取ったものの、そ の後の20年間はFrelimoとRenamoの間での内戦が続いた。Renamoとは1976年に出来た反Frelimo組織で、少数の白人による支配 がまだ続いていた南アフリカや南ローデシアがアフリカ人国民主義の高まりを恐れ支援していた。さらに、Frelimo政権はマルクスレーニン主義に基づく 社会主義国家の建設を目指し、アパルトヘイト施策や白人入植者による支配に反対を表明した。そのため、南アフリカは対Frelimoゲリラ闘争を一層積極 的に支援し始め、彼らの作戦に資金を提供し、モザンビーク国内のインフラを破壊し開発プロジェクトを妨害した。地方では多くの地雷が埋められ数千人が爆死 し、さらに多くが足を失った。一方でザンビア・タンザニア・独立後のジンバブエといった近隣国はFerlimo政府側に軍事的支援を行った。内戦が続くに つれ国内では生命も危うくなり経済生活は崩壊し、100万人近くの人々が住み慣れた土地を離れ離散し、国外避難民の数は独立戦争中1974年の25万人から 1993年の内戦終結までに170万人まで膨れ上がり、国内での避難については400万人にも上った。
  ii)  ンコマティ協定
1980 年代初めにはモザンビークの経済はどん底に陥り、石油や砂糖を手に入れることも難しくなった。Renamoと白人南アフリカはモザンビーク政府・経済の両 方を弱体化することに成功していた。マチェルは国を立て直すため、西欧諸国との関係修復に取り掛かり、同時にアパルトヘイト体制の南アフリカとの交渉も始 めた。最終的に1984年にンコマティ協定を南アフリカと結ぶことに成功し、モザンビークは南アフリカのアフリカ国民会議(ANC)をはじめとするアフリ カ人国民運動を保護しない代わりに南アフリカもRenamoに軍事的支援をしないことで合意した。しかし、協定締結後も8年間内戦は続き、途中1986年 10月19日にはマチェルが飛行機事故で死亡、シサノ・ジョアチムが後を引き継いだ。
  iii)  冷戦の終結、終結へ
内戦、絶望的な経済、南アフリカとの敵対といった状況の中シサノは大統領に就任した。彼は暴虐なふるまいを続けるRenamoに対しては強い姿勢を維持し、前 任者と同様西欧諸国との関係を改善しようとした。さらに1980年代後半には冷戦の終わりやフレデリック・ウィリアム・デ・クラークの南アフリカ大統領就 任により状況が一変する。共産主義イデオロギーは否定され、1989年にモザンビーク政府は社会主義経済政策を廃止し経済改革に取り組み始めた。デ・ク ラークの南アフリカは改革を行いANCの活動を解禁。Renamoに対する援助も尻すぼみになっていった。このような国際・地域・国内の情勢の変化に伴い Frelimoは自由主義経済・新憲法制定・西欧との関係改善・Renamoとの和平といった改革に舵を切っていった。新憲法は1990年に発布され、 1977年以来続いた法定の一党制を排し複数政党選挙を認めた。また、国際的な仲介によりFrelimoとRenamoの間で1992年10月15日に停 戦協定が結ばれ正式に内戦は終結した。

VI. 現在                                  
内戦終結後、1994年・1999年の選挙ではシサノ大統領率いる Frelimoが圧倒的に勝利し、2004年にシサノ大統領が任期を終えた後の2004年の選挙でもFrelimoが勝利しゲブーサが大統領に就任した。 しかしRenamoも一定数の議席を確保し、無視できない存在となった。
1995年には周辺国に合わせて英連邦に加盟、また貧困削減戦略を策定、 翌1996年には経済多角化のためポルトガル語諸国共同体にも加盟した。1999年にはIDA・IMFによる債務救済と経済成長政策が実行された。国際金 融機関・援助機関の援助とともに、海外直接投資を積極的に呼び込み、急速に経済成長を続けている。


<参考>
平野克己監修(2011) 『日本人が知っておきたいアフリカ53か国のすべて』 レッカ社
JETRO(2014) 『モザンビーク概況』 URL:http://www.jetro.go.jp/world/africa/
Ndege, George O. (2007). Culture and Customs of Mozambique. Westport: Green wood Press

*画像はCIAより

ザンビアの歴史

*主にScott (2006)より
I.  民族の入れ替わりと王国の形成                          
紀元前5世紀~紀元10世紀:バンツー語族が西アフリカより移動し、原住民だったコイサン語族を追放、あるいは通婚などを通し同化する。
トンガ人は1200年頃には東方から現在のザンビア南部に移住。ベンバ人・ロジ人等そのほかの民族はルアラバ川周辺の人口圧力に押される形で、現在のコンゴに位置したルンダ・ルバ王国から1600~1750年頃に南下してきたと言われている。
最 初の近代西欧との接触は1500年頃東アフリカ交易路を開拓しだしたポルトガル人との出会いであり、奴隷貿易商は主に西から、商人はインド洋から渡ってき た。また、海外との交流については、遅くとも1世紀には南・東アフリカ地域社会は中国・ローマ・アラブなどの古代文明との交流があったことも忘れてはなら ない。
ザンビア内に定住した民俗間では民族の移動の際に頻繁に争いがあり、バンツー語族・コイサン語族、ベンバ人・マンブエ人、ベンバ人・ビサ 人、ベンバ人・ンゴニ人などの間で争いがあった。1700年頃ザンビア西方ザンベジ川氾濫原に居住したロジ人は西欧の束縛を受けず、他の民族を傘下にいれ 組織化された王国を持っていた。

II.  南アフリカ会社による支配から直轄植民地へ                   

1850年代までは西欧はザンビア地域にあまり興味を示してこなかったが、1851年にスコットランド人宣教師や探検家のリビングストンが訪れ詳細に報告したことをきっかけに、ベルリン会議の 5年後1890年には大量の白人(キリスト教宣教師・探検家)が流れ込み、さらに1890年から91年にかけてイギリス南アフリカ会社が現在のザンビアと なる領域を管理下に置きザンビアの植民地支配が始まる。イギリス南アフリカ会社は彼らの言う「保護」を与える代わりに独占的な鉱山採掘権を得るという取引 をロジ王レワニカと交わし、領域全体に支配を広げていった。同時に、南アフリカ会社は現在のザンベジ川流域で現在のジンバブエにあたる地域のンデベレ王ロ ベングラとも同様の取引を交わしており、のちの北ローデシアと南ローデシアとなった。
支配開始初期のうちは白人入植者は少数でほとんどは南アフリ カ会社鉱山開発担当者だったが、19世紀が終わるころには大規模農業を目的として多くの白人が移住した。1920年までに移住した5000人弱の白人のほ とんどは鉄道が整備された中央部に住み、それ以外の地域には開発の手は及ばなかった。そして1923年には会社による利益独占に白人入植者が反感を抱き国 民投票により南アフリカ会社による支配から英国植民省による直轄植民地へと移行。白人入植者らは立法委員会を構成し本国に高度な自治を要求するようにな る。

III.  中央アフリカ連邦の形成                            
南北ローデシアは別々の地域として高度な自治が行われていたが、もともとは同じ南ア フリカ会社に支配されていたことや、どちらも入植者が英語系であること、経済的結びつきが強いことから早くとも1930年代には何らかの形での統合あるい は連携へ向けての機運が生まれてきた。高度な自治が認められているとはいえ、地域の統合は国家の主権に関わることであり本国との交渉に時間がかかったが、 1953年には二アサランド(現在のマラウイ)を加えて中央アフリカ連邦が誕生し、連邦議会および首相がサリスブリー(現在のハラレ)に設置された。連邦 の権限は防衛・貿易・通信・産業・金融に限定され、その他教育・福祉・農業・土地政策は各州政府が管轄した。連邦が機能していた期間、イギリス本国からの 介入はほとんどなかったといってい良い。
当時北ローデシアと二アサランドとしては、インフラをはじめとする産業基盤が優れた南側と統合されること による経済的恩恵や、白人人口の多い南側との統合よる自治強化を期待していたようだが、実際には確かに自治は強化されたが経済的には北側の銅をはじめとす る自然資源・人的資本が南側のに流れ出しただけであった。このときの流れが現在のジンバブエの独立後初期の経済成長に著しく貢献したと考えられる。
その後黒人の貧困がより激しかった南側で、黒人の20万人に及んだ白人移住者への反感が高まり資源をめぐり争いが起こるようになり、さらに1960年代になって連邦の人種差別政策が国際的に受け入れられなくなってくると、1963年に連邦は解体された。

IV. 独立、カウンダ独裁政権                           za-lgflag
第 二次大戦後、インド独立(1947)の報などに刺激され始まったアフリカ諸国の独立運動に影響を受け、遅くとも1950年代後半にはザンビアでも独立運動 がはじまった。ザンビアの独立運動はハリー・ンクムブラとケネス・カウンダをリーダーとする北ローデシアアフリカ人国民会議(NRANC)(のちに単に ANCに改名)によって当初主導されたが、1958年にはイギリス政府との交渉の仕方に関し対立が生じカウンダが分離しより過激な組織としてザンビアアフ リカ人国民会議(ZANC)を設立。翌年には運動が禁止されカウンダ自身も投獄されるが、1960年には統一国民独立党(UNIP)を新たに設立した。北 ローデシアの人種差別政策は南側と比べれば比較的穏当なものだったため、独立運動の高まりを受けたイギリスの提案により独立交渉が速やかに行われ、暴力含 みとなったジンバブエの独立よりは平和的に独立プロセスが進行したといえる。手始めに1962年には立法委員会に黒人が選出され、最終的に1964年10 月24日に正式にザンビア共和国として独立した。独立に先立ち行われた議会選挙ではUNIPが圧倒的多数を獲得し、ケネス・カウンダが初代大統領に就任。 複数政党制を導入し、独立後の65の議席のうち55がUNIP、残りの10議席がANCであった。しかし、1966年に設立された統一党(UP)は設立2 年後に活動禁止、副大統領を務めたベンバ人政治家により1971年に設立された統一人民党(UPP)は設立6か月後には活動を禁止された。1972年2月 にはUPP活動禁止とほぼ同時に一党制への転換が宣言され同年12月には憲法が改正され正式に一党制に移行した。この背景として、UPPがUNIPの支持 基盤であった北部のベンバ人の支持を集めようとしたことをきっかけに政党間での民族差別的紛争が起こるようになったことがあると言われる。1973年には 改めて一党制に基づく新憲法を制定しカウンダがザンビア第二共和国大統領に就任。1991年まではUNIPの一党制・カウンダ独裁の体制が続いたが、経済 危機や国内外からの圧力により再び複数政党制に移行した。

V.  現在                                    

複数政党制のもとで行われた選挙では複数政党制民 主主義運動(MMD)がUNIPを下して第一党となりフレデリック・チルバが2代目大統領となり96年に再選。同年の憲法改正で大統領の三選が禁止された ため2002年には同党のレヴィー・ムワナワサが3代目大統領に就任。実務の登用や構造改革に取り組むが2008年8月に病死。後任に選ばれたルピア・バ ンダは前大統領の経済成長路線を継承し2030年までの長期国家戦略を策定し中進国入りを目指している。2011年9月の選挙では愛国戦線(PF)へ政権 交代し党首マイケル・サタが5代目大統領に就任した。


<参考>
平野克己監修(2011) 『日本人が知っておきたいアフリカ53か国のすべて』 レッカ社
JETRO(2014) 『ザンビア概況』 URL:http://www.jetro.go.jp/world/africa/outline/zambia_20140514.pdf
Taylor, Scott D. (2006). Cultures and Customs of Zambia. Westport: Green wood Press

※画像はCIAより

【国別情報】モザンビーク

I. 基本情報                      mz_large_locator
人口:約2600万人(2014)mz-lgflag
面積:約79万㎢(日本の約2倍)
首都:マプト

GDP:約156億ドル(2013)
一人当たりGNI:610ドル(2013)(日本の約1.3%)

*世界銀行データより

II. 人口構成                     
i) 民族
アフリカ人99.66%(マクワ人・トンガ人・ロmz-mapムエ人・セナ人・その他)、その他ヨーロッパ系・インド系
ii) 言語(1997年国勢調査)
公用語:ポルトガル語10.7%(英語も広く使用される)
エマクワ語25.3%、シチャンガナ語10.3%、シセナ語7.5%、エロムエ語7%、エチュワボ語5.1%、その他モザンビーク系語30.1%、その他4%
iii) 宗教(2007年調査)
・キリスト教カトリック28.4%、イスラム教17.9%、シオニズム系キリスト教15.5%、プロテスタント12.2%、その他6.7%、無宗教18.7%、不明0.7%
・キリスト教(カトリック28.4%・プロテスタント27.7%)、イスラム教17.9% ※JETRO

*CIA World Factbookより

III. 歴史                        
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*画像はCIAより
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